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バッハの作品における聖書と象徴①(Ludwig Purautzsch)

こんにちは。いよいよ書き進めていきたいと思いますが、作者の「はじめに」の部分を訳せていませんでしたので、1章(5ページ)からスタートになります。
訳せたらまた書きたいと思います。(マイペースですみません)
この訳がどなたかのお役にたてますように。。。

バッハの作品における聖書と象徴(Bibel und Symbol in den Werken Bachs,pp5-6)

まず、筆者は聖書と象徴のテーマから離れる。なぜなら、バッハは社会生活の基盤と中心となるのが聖書や教会だった時代に生まれたからであるため、そこの問題を書かなければならない。彼の人生について明確に書かれたものがある。ここでヨーハン・ペーター・ケルナーの息子であるカッセルカントルのヨーハン・クリストフ・ケルナー(1736ー1803)はバッハとの関連を詳しく確立していた人物であるため、彼の自伝よりフレーズを引用する。

ヨーハン・クリストフ・ケルナーの自伝に、地元の学校の6年生の時に宗教とキリスト教の概念を学んだとある。自伝には読み書きそろばんを学んだことに関しては触れていないが、当時の学校教育のカリキュラムとして聖書、カテキズム、賛美歌が教養として学ぶものであったとある。

J.S.バッハとヨーハン・クリストフ・ケルナーの時代が似ている。バッハの両親は早くに亡くしており、バッハのために兄のヨハン・クリストフの家に招き入れた。いくつか例があるように、バッハ一家も音楽の才能があった。オウドルフやチューリンゲンの村で14歳の兄と10歳のバッハは教会のオルガニストとして働いた。

その5年後、バッハは並外れた美しいソプラノの声だけでなく、選抜の聖歌隊のモルテット歌手として歌うことを許された。
リューネブルクにあるミカエリス学校に通い、彼の学生時代の礼拝、賛美歌や聖書の言葉全ては彼自身にとって重要な要素だった。

それでは、どれくらいの頻度で聖歌が歌われるのかイメージしてみよう。
毎週日曜日の午前・午後のリハーサルの前、毎週土曜日の夜、過越祭、3連休、数々の小さなお祭り、新年、エピファニー、メアリークリーニング(聖母)、受胎告知、アセンション、セントジョンズ、ミヒャエルフェストなどがある。

続きます。


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