怒るべきか怒らざるべきか

皆さんは怒られるのが好きだろうか?
好きな人は、マゾヒストと認定差し上げます。
おそらく、ほとんどの人は怒られるのが嫌いなのだろうと思う。
では、何故人は怒るのだろうか?
まず、単純な話だと生物的な感情の発露だろう。
生理現象から推測するに、危機に際して攻撃モードに入る事を人間は怒りと呼んでいると言える。
一説には、怒りの感情は一種の快楽である、という説もある。
基本的に怒りを持つ人間は、少なくとも主観的に正義であり、正義として悪を糾弾することで極めて強い自己肯定感を得ているのかもしれない。
また、怒っているのではなく、相手の為を思って叱っているのだ、という主張もあるかもしれない。
とはいえ、やはり怒られる方からしたらあまり気持ちのいいものではない。
なんなら、他人が怒られているだけでもゲンナリする人は、特に最近の若い人だと多数派なのだろう。
下手すると、職場で怒っているだけでハラスメント認定されかねないのが現代社会である。
とすると、怒りは完全なる悪なのだろうか?
確かに、キリスト教において、「憤怒」は7つの大罪のひとつとして数えられている。
もっとも、キリスト教徒が憤怒に駆られて戦争に突き進んだ例なぞ数えるべくもないのだが…
逆に、怒りの感情がプラスの効果を発揮する場面はあるのだろうか?
基本的には、前述の通り、攻撃的な能力の向上は一定程度見られるかもしれない。
客観的な話だと、実はそれくらいになるかもしれない。
実際問題、怒りに溺れると視野は狭くなるし身体は強張って柔軟性は失われるし、息は切れると、例えば喧嘩する場面であっても必ずしもプラス面だけとは言いがたい。
あとは、特に自分のために怒っている人というのは、はたから見てあまりみっともよいものではない。
特に狭量であり、自己中心的であり、短絡的であり、感情的であると見做されやすい。
すぐ怒る人物だと思われれば、いわゆる報連相もまともにしてもらえない裸の王様になりがちである。
それか、周りには臆病なイエスマンしか残らないことになるのかもしれない。
しかし、ひとつだけ、むしろ怒ることが良い結果を招くこともあるかもしれない。
というより、怒らない事がむしろ悪い結果を招くこともあるように思う。
それは、他人のために怒ることである。
勿論、なんでお前が怒ってるの?と思われるタイミングに怒っている人はとてもではないが信頼はされないのは当然である。
怒るべきタイミングというのは、自身の部下や管理下にある人間に対して、理不尽や不誠実な行い、言動をされた時ではないだろうか?
こういう時であっても、基本的には怒ること自体、怒った人の評価の低下が付いてくる可能性が高い。
だが、自分の上司や管理者が自分のために戦ってくれた、という事実は信頼を生み出すのではないだろうか?
しかも、自身の評価の低下というリスクを背負ってまで自分を庇ってくれるというのは、信頼を助長するものだと言えるだろう。
ただ、注意するべきは、他人のためという大義名分を振り翳して、怒りの発露を行うことは厳に戒めるべきである。
とあるフェミニストの例では、二次元の少女の服装やポーズにケチを付ける時に、「現実の女性が性的対象化される!」などと意味不明な事を言って憤怒するのである。
いや、現実の女性の多くは、二次元の少女が何してたって気にしないし、現実の男性は別に二次元の少女と現実の女性とを混同しないのである。
ただ単に「私が気に食わない!」と言う方がよっぽどマシである。
本心から自分が守るべきものを守るために怒りを表すことは、時として良い結果を招く事があるが、誰かを守ると言いながら筋の通らない訳の分からないキレ方をする様な人間は、普通に怒る人よりも更に信頼を失う事を肝に銘じなければならない。

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