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神と科学

先ほど読み終わった本は、菅原出氏の「民間軍事会社の内幕」である。
これも趣味の本なので、そこまで積極的にお勧めすることはないのだが、中々読み応えはある本であった。
正直、著者が紛争地域に行く訓練をするパートだけでもお値段分はペイするとは思うので、興味がある方は手に取っても価値はあると思う。

さて、今回のテーマも読んだ本とは全く関係がない。
よく聞く言葉にこんなものがある。
「私は科学的なものしか信じない」
とあるTikTokの動画でたまたま見たので、少し書いてみようと思った次第である。
私は腐っても工学修士であり、理系としてそれなりの勉学研究に励んできた。
(その割には数学からは逃げ回ってたのだが…)
ということで、一般の方からしたら、私もそういうタイプに見えるかもしれない。
特に神の存在については、「非科学的だ!」という話になりやすい。
さて、ではそもそも「科学的」とは何なのであろうか?
Google先生によれば、「科学の方法に合致して合理的・客観的であること。」であるらしい。
では、「科学」とはなんぞや?
「一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。 また、その成果としての体系的知識。」とのこと。
分かりにくいので、少し整理する必要があろう。
まず、私の立場は自然科学の人間なので、人文科学とか社会科学とかの個別の論理は無視する。
てか、そいつらも科学を名乗りたいならそのプロセスに合わせろと言いたい。

まず、科学とは、論理学である、というものである。
科学的に思考する際には、原因と結果を論理的に類推して結論を出すことが求められる。
論理的類推のための道具として、数学であったり統計であったり確率であったりを最大限活用することとなる。
後ほどにも述べるが、数学ならともかく科学においては確定要素はなかなかないため、「確からしさ」をどれだけ担保できるかで、論理的な度合いが担保されることとなるだろう。

次に求められるのは客観性である。
実際問題、余程の変人というものはいるものだが、基本的に必要な知識を有する一般人にとって同じ認識に至れる客観性が求められる。
現象や観察結果に対して、可能な限り余計なバイアス、思い込みを排して、客観的かつ可能な限り定量的な指標を用いて計数化して、それを論理の基盤とする、という考え方である。
ここがブレると、極めて論理的であっても、とんでも理論が出来上がることは多々ある。
そもそも前提が間違っているのだから、論理的であればあるほど、正確に間違った結論を得ることになるのである。
(逆にいうと、論理が無茶苦茶なら、前提が間違ってても結果的に正しい結論を得る可能性がある、それに何の意味があるのかは疑問であるが…)

次に必要なのは、再現性である。
ただ、注意が必要なのは、必ず毎回同じ結果が出る必要はないのである。
初等物理学とかであれば、計測誤差の範囲内でほとんど再現性は取れるだろうが、特に化学に近い分野だと、相当に確率に左右される。
ただ、確率に左右されるから適当でええやん?とはならないのである。
その現象がどれだけの確率で起きるかを割り出し、ほぼほぼ同じ確率でその現象を再現できることを示さなければならない。
「ラプラスの悪魔」という中二病心をくすぐる思考実験があり、宇宙の全ての物質や現象を掌握している存在がいたとして、宇宙で起きる全てのことを予知できるのか?というものがある。
結論、ムリ、ということである。
アインシュタインなんかも「神はサイコロを振らない」派だったのだが、現代の科学の定説は「神はサイコロを振る」のである。
物事は最終的には確率で決まり、トンネル効果というものもあるように、確率で言えば極々低い確率で人間が壁を通り抜けることだってできるのである。
(ほぼ0に近い確率なので、まずそんなことは起こり得ないが…)

次に必要なのが体系化である。
科学的アプローチで重要なのは論理的な積み重ねである。
ただ、それを一人でやると、極めて限られたアウトプットしか出すことができない。
人類が他の動物と根源的に違う部分は、この体系化にあると言えよう。
知能や知性のある動物は人間以外にもいる。
言葉についても、一定のコミュニケーションができる種が存在する。
記録でさえ、簡易的な目印レベルではあるが、記録ができる動物がいる。
しかし、知識の体系化というものは人類の専売特許である。
他の動物も遺伝子レベルで体系化している、とは言えるかもしれないが、意思を持って実用的に体系化出来るのは、少なくとも地球上では人間のみである。
念の為、字義を確認しておこう。
「一定の秩序や規則に従って整然と組織された状態を指す言葉である。 この言葉は、情報や知識、事象などが互いに関連し、全体として一貫性を持つように整理されていることを示す。」
これは、科学的な観察や実験、考察の結果を体系的に記録し、その記録した体系を参照して新たな仮説を構築したり、既に体系化された理論を活用したりすることである。
既に先人が行った成果を活用して、現代の自分が未来を切り開くのが科学なのである。
要は、学問としての積み重ねが必須なのである。
ただ、注意するべきなのは、過去の先人の成果が必ずしも正しいとは限らないのである。
当時の科学の限界でそこまでしか分からなかった場合もあるし、下手すると碌にチェックをされてなくて間違った理論が体系に組み込まれているなんてことも無いとは言えない。
その場合は、より確かな根拠と論理を持って、その体系を書き換える作業が必要になる。

次は、反証可能性についてである。
これも聞き慣れない言葉だと思うので、字義を確かめたい。
「提案されている命題や仮説が、実験や観察によって反証(その仮定的事実や証拠が真実でないことを立証すること。そのための証拠。)される可能性があること」
要は、科学は何らかの仮定を証明して理論化するが、現実である実験や観察の結果がその仮定を否定するものであれば、その仮定は正しくない、とされるということである。
宗教一般の論理として、神(やそれに準ずる者、教祖とか)の教えは絶対的に正しい、というものがある。
絶対的な存在であるはずの教義が、そんなにコロコロ主張を変えられても困るのである。
しかしながら、その教えが現実に即していないことなんて多々ある。
では、宗教は現実と教えに差異がある場合にはどうするのだろうか?
答えは、現実側を否定するのである。
これの極端な例が原理主義である。
それに対して、科学は現実を受け止め、理論側を修正するのである。
逆にいうと、現実たる実験や観察の結果を受け入れずに、理論を修正できなくなれば、それは科学としての要件を失っていると言えるだろう。
「科学的なことは絶対に正しいんだ!」と言う人がいるとすれば、それは科学者ではなく科学教の信者(教祖かもしれないが…)と言っても良いだろう。

最後に必要なのは、未知の受容であろう。
科学とは、未知に相対する学問である。
既に解明された事実や理論をベースに、未知の分野を切り開くことが求められる。
科学の研究においては、その新規性を厳しく問われる。
時間をかけて「車輪の再発明」をしても仕方がないのである。
であるからして、科学にとっては未知はつきものである。
「科学的に証明されたものしか認めない!」と言うのは科学に相対する態度として不適切なのである。
もしも科学的な考え方を大切にするのであれば、「科学的アプローチに基づかない、とんでも理論やその結論は認めない」というものになろう。
必ず科学には未知が存在するのであるから、今まで科学的に証明することができていないことをもって、不存在である、という結論を出すことはできないのである。
ただし、存在証明の責任は主張者に課せられる。
「無いと思うなら、無いことを証明しろ!」という主張は悪魔の証明と呼ばれており、科学においては認められていない。
こんなもん、認めてしまえば言いたい放題だし、もし否定したいならば否定側が無限に近い労力を負担しなければならなくなる。
例えば、「黒い白鳥はいるんだ!」と主張するならば、黒い白鳥を捕まえてくるなり、剥製を持ってくるなり、画像や映像を撮影するなりして、少なくとも一羽は黒い白鳥がいることを主張側が示さなければならない。
もし、黒い白鳥がいないことを証明しなければならないならば、この世の全ての白鳥が白いことを確認しきらないといけなくなり、それは実質不可能であると言える。
余談だが、黒い白鳥は実在し、私も見たことがある。(1697年に発見されたそうだ。)

さて、話は変わるが、私は割とオカルトは好きである。
心霊系も好きだし、呪術系や超常現象系も興味がある。
UMAや宇宙人も嫌いではない。
それらは非科学的な存在なのだろうか?
私はそうは思わない。
未知の受容の論理からすると、それらは現代の科学ではまだ存在が証明されていないだけの存在ではないか?と思えるのである。
ゴリラやパンダも昔はUMA的な扱いだったそうである。
ただ、実在するとは主張しない。
そんなことをしたら、「存在すると主張するならば、その証拠を持って来い」と言われるからである。
残念ながら、私は存在を証明する手段を持ち合わせてはいない。
なので、個人的には科学的に正しい態度として「存在の証明はできないので存在するとは言えないが、今のところ不存在の証明もされていないのだから、存在しないとは言い切れない」という立場をとることになるだろう。
とすると、神の存在を科学で考えた時も、私は同じ立場を取ることになる。
ただし、個人的には既存の宗教によくある、人間を救済してくれる都合の良い神様はいないと思っている。
いるとするならば、「多神教の神の様な超常意識体」か「創造主たる上位意識体」なのではないかと思っている。
多神教、特に日本の八百万の神信仰においては、神は絶対的な存在としては考えられていない。
畏れ敬う一方で、結構人間でも神に楯突いたりしてるのである。
個人的には、日本人にとっての神の立ち位置は、「近所のヤクザ」みたいな感じなのではないだろうか?
怒らせるとヤバいけど、貢物したら恩恵があったりするし、他所からヤバいヤツが来たらそいつをけしかければいい、排除とかもしにくいから隣人としてお付き合いしなければいけない、そんな存在として捉えられている気がする。
さて、「創造主たる神」とはどういうことであろうか?
これは、科学に真剣に触れていた人はぶち当たる感想であると思うが、自然の現象は意思のある何者かに作られたかのようだ、と思わざるを得ないものが高頻度で現れる、ということである。
例えば物理現象が簡単な数式で表されてしまったり、生物や無生物の形状が幾何学的に均整のとれたものになったり、というものである。
後者についての例は、アンモナイトの巻き方が黄金比になっていたり、雪の結晶が綺麗な幾何学的模様になったりする、といったものである。
これは、本当にただの偶然で出来上がったものなのか?という疑問は湧き、もしかしたら「創造主たる存在」つまり神がいても不思議ではないのではないか?と思ってしまうのである。

という訳で、私は特定の宗教を信仰する立場には無いが、無神論者でもない。
神はいるかもしれないね、という立場である。
ただ、いるとすれば、科学の立ち位置としてはこんなものが良いのでは無いだろうか?
「神の創りたもうたこの世界の真理を詳らかにする学問」
この世界は上位存在が作ったシミュレーションである、だなんて仮説もある。
ちょっとそれを証明するのは無理だとは思うのだが、それはそれとして、神と呼べるものが存在するかもしれない、というのはひとつのロマンであると言えよう。

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