naritaijibun
ひさしぶりのnoteは午前2時から書きはじめる。
こんな日にnoteを書くとは思ってもいなかったけど、
2022年5月2日の午前2時だ。
いきつけのBarからの帰り道、風が気持ちいい季節になった沖縄を感じた。
こんな小説っぽい入りをしてるのはほかでもない。
小説家の子とBarにいってきたからだ。
文章を書くことが好きな僕だけど、小説を書きたいとは思わない。
けど、自分の言葉で気持ちを吐き出したいときにnoteを書くことはある。
小説家の気持ちなんてわかるはずもないのだけど、それでも人と人の関係だからこそ、その子の気持ちも考える。
そもそも小説家に会ったことすらなかったし、国語の先生ですら深く話したことがない。
Barにたまたまいた人は国語(古典)の先生だったみたいで、とても話が弾んでいたし、合っていた。
その時の話が僕の中でも気になってメモをした。
国語の先生を目指す人と小説家を目指す人の一線の境は
「言葉で表現できてしまうかどうか」
たしかにそうだ。
国語の先生はすべてを言語化し、授業をする。
筆者の気持ちも生徒の気持ちもなにもかも言語化して、わかりやすく伝える。
小説家はいかに直接的に書かずに、想像させるか。
ではなく、実際には言語化能力が低く、どうにか伝えようとする表現だ。
言語化能力が低くない人もいるのかもしないが、そこに触れるのはそもそも論点が違う。
ストレスやうっぷん、何かしらをぶつける手段の一つとして小説を書いている人も多い。育ってきた環境で書く言葉は違う。
僕は国語教師派か、小説家派か。
決まった正解はないが、僕はどちらでもないだろう。小説家寄りとでも言おうか。
noteは書きたい自分を愛でるために書いていることが多い。
何かを書きたい衝動に駆られて、とりあえずnoteのページを開く。
それがこのnoteのはじまりでもあるし、1日の勢いのまま書き終えないと世に出さずに終わってしまう。
誰かに見てほしいわけではないものばかりだが、それでも書く。
コミュニケーションを取って、何かを伝えることが苦手だった僕にとっては文章を書くことは逃げ道でもあり、得意なことだった。
冷たい文、温かい文、怖い文、優しい文。
日々のLINEでも使い分けるような言葉たちを口に出すことはしなかった。
最近になってnoteが書きにくくなってるのは、コミュニケーションを取りだしたからかもしれない。
コミュニケーションとしての言語が多くなり、吐き口としての文字が少なくなる。
"人"としてはいい流れなのかもしれない。
なりたい自分はどっちの自分なのか。
書きたいときに書いて、話したいときに話す僕としては
どちらでもいいのかもしれない。
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