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ソウルガソリン

 人も政治も天気も混迷を極めていた平成16年秋のある朝、僕はいつものようにソファに腰掛けてホット・ミルクを飲みながら新聞を精読していた。
  僕は高校生だった頃、授業が終わると部活がない日は可能な限り早く帰宅し、今のようにソファに座って新聞を精読するのが日課だった。ただその頃は、ホット・ミルクではなく日本茶を飲んでいた。
 大学生になってアパートで一人暮らしを始めてから、その習慣はしばらく途絶えた。最初は新聞をとっていたのだが、申し込んで3ヶ月後、僕は新聞社に電話して、購読の中止をしたい、と告げていた。何故ですかと聞く相手に、新聞を保管する場所を確保するのが嫌になったんです、と正直に答えたら、そんな理由は認められない、あなたは1年契約したんだから1年間新聞を購読しなければならない、と突っぱねられた。僕は面倒になって、じゃあ金は払いますから新聞を部屋に入れるのは止してください。僕の部屋には本当に新聞が邪魔なんです。と答えて電話を切った。新聞は来なくなったし料金も回収されなかった。
 そのようなほろ苦い体験をしたにも関わらず、実家に戻って間もなく僕はまたソファで新聞を精読するようになっていた。本当は自分は新聞が好きだからなのかもしれないし、「十分なスペースと暖かい飲み物と新聞」というコンビネーションが好きなのかもしれないし、それ以外の様々な要因も複雑に絡み合っているのかもしれない。しかし追求するほどのことでもない。

 玄関のインターホンが鳴ったので、僕は応答するために立ち上がった。モニタには帽子を被った中年の女性。「私、田卦中と申します。聖書を通じてキリスト様の教えの素晴らしさを皆様に少しでもお伝えできれば、と思って参りました」
 ああそうですか。もちろん通常なら僕は世の中の大半の人と同様、「あっうちはそういうの結構ですので、さようなら」などと言って追い払うのだが、今日は違った。理由は特にない。ただなんというか、そういう流れだったのだ。
 僕は数秒考えてから「ありがたいことです」と答えた。
 「ありがたいことですね。よろしかったらお手数ですけど、玄関先まで出てきてくださいませんか」モニタに映った田卦中の顔が輝いた。輝いた、というのは表情が明るくなった、という意味でもあるが、実際に僕には彼女の顔から光が少し放出したようにも見えた。しかしそんなはずはないだろう。

 「キリスト教や聖書といったものに対してどう思われますか。興味をお持ちになったことはありますか」
 田卦中の顔はやはり光ってはいなかった。僕はキリスト教に興味はなかったが、田卦中に馬鹿にされまいと思って虚勢を張った。
 「ああ新約聖書のルカの福音書は読みましたよ。キリスト様の教えは時としてラジカルでパラドキシカルでありながらも、簡潔にして明快で素晴らしいと思います。何よりあの絶妙なレトリックには唸らざるを得ませんね。文字で読むだけでもそう思わせるくらいですから、直接彼の口から言葉を聞いた無知な民衆がコロっといっちゃうのも、ま、ムリないですよ。僕が特に気に入っているなのは18章25節の”金持ちが幸せになるよりはらくだが針の穴を通るほうがまだやさしい”かな。でもらくだというのは誤訳で本当はロープだったと後でわかったそうですけども、らくだの方がやはりおもしろ・・」
 うんうんと頷いて聞いていた田卦中は唐突に僕の言葉を遮って「今日はこれからお忙しいですか」と尋ねた。
 夜にアルバイトに行くがそれまで何も予定はない。「たいへん暇です」と答えると、「それでは参りましょう」と田卦中は優雅な動作で体をひらりと反転させ、歩き始めた。
 「ちょっと待ってください」僕は慌てた。「どこへ行くんですか。僕はまだこの通り寝巻のままだし新聞だって読み終えてない。つまり準備ができていないんですよ。体も心も」
 田卦中は体の向きを変えずに「私は下北半島で7年間教義を学んだのです。それまでは照明の専門学校に通っていて、御教えに興味はありませんでした」と言った。下北半島?下北半島は日本のキリスト教の重要な拠点か何かなのだろうか。僕は下北半島に聳え立つ巨大な教会を思い浮かべようとしたが、駄目だった。下北半島についてはキリスト教以上に僕は知らないのだ。「しかし、せめてホット・ミルクだけでも飲ませてくれませんか」僕は一応反論を続けてみせたが、ただ形式上抵抗を示しただけだと自分でもわかっていた。これは抗えないことなのだ。

 もっと不思議な場所に連れて行かれるかとも思ったが、着いた先は駅の近くの教会だった。僕は安堵した。
 それまでの約15分、僕と田卦中は一言も話さなかった。何を聞くべきかわからなかったし、聞いたところでこの女が満足な回答をしないことは明らかだったからだ。
 教会では初老の牧師が静かに説教をしていた。田卦中と僕は聴衆の中に紛れ込んだ。どのような態度で聞けばよいのかと周囲の人間を見回しているうちに説教は終わってしまい、それでは皆で賛美歌を歌いましょうと牧師は告げた。
 まずいことになった。僕は賛美歌が歌えないのだ。平山の結婚式のときも僕は賛美歌を歌えなかった。「賛美歌のメロディーを忘れてしまって」僕は曖昧な笑みを隣の田卦中に向けて浮かべた。ところがついさっきまでそこに居たはずの田卦中はその場にいなかった。代わりに髪を紫に染めた老婦人がいて、「わたくし白髪染めをしてきたんですよ。ええ矢切の美容院で」とにこやかに答えた。知人と勘違いしたのだろうか。僕は諦めて下を向いてじっとしていることにした。
 何曲目かの賛美歌を僕は聴いたことがあった。それで僕は歌うことにした。別に歌わなくてもよかったのだが、歌わずにいたそれまでの数分間があまりにも気まずかったのだ。もっとも僕が歌っていないことなど誰も気にしていなかっただろう。気まずさを感じさせたのは僕の自意識にすぎない。昔教会で周囲が静まりかえっているときにおならをしてしまい、恥ずかしさに心拍数が急上昇して死んでしまったという女の子の話を聞いたことがあるが、彼女などは自意識に殺されたようなものだ。そういえば僕も今教会にいるが、教会と自意識は何か関係があるのだろうか。
 賛美歌がはじまる。僕は低く小さな声で賛美歌を歌った。歌詞までは覚えていなかったので、滝廉太郎の「荒城の月」の歌詞を思い出して代用した。他に歌詞を全暗記している歌をとっさに見つけられなかったからで、それ以上の意味はない。歌いはじめるとじき僕は程よい高揚感や一体感を得ることができた。それでいて適度な安らぎや居心地の良さもあった。陽だまりのソファでホット・ミルクを飲んでいるのと同じような。

 そのうちに奇妙なことが起こった。
 まず、祭壇の脇の大きな窓ガラスから差し込む太陽の光が急激に強くなり、窓ガラスが光であふれて外が見えなくなった。
 次に光がガラスの四角からはみ出して窓枠を浸食しはじめた。
 光はその形をいびつに歪め、変化させながら、少しずつ、だが確実に広がり、教会の壁を吸収していった。
 異変に気付いた僕は動揺を抑えて賛美歌を歌い続けたが、気がつくと信者たちはみな賛美歌を歌うのを止していた。いま荒城のよはの月。かわらぬ光たがためぞ。メロディーと歌詞が少しもマッチしていない不自然な僕の歌だけが虚しく聖堂に響く。僕は慌てて歌をやめた。しかし静寂は訪れなかった。よく聞くと信者たちは歌を止めたかわりに、めいめいが極めて小さな声で「アー」と長い音を発しているのだった。声の高さやトーンはばらばらだったが、高い音低い音、楽しそうな音や哀しそうな音、あらゆるアーが渾然一体となって不可思議な一つの音の集合を創り出しており、その音は消して途切れることがなかった。
 音は時に形容しがたいうねりを呼び、僕は強いエクスタシーを感じた。光はますます強まってゆく。音も大きくなってゆく。もはや目を開けていることができなくなった。僕は目を閉じて、友人のジョニーのことを頭に浮かべた。ジョニーは今ごろ何をしているだろうか。ハリー・ポッターの最新刊はやはり発売日当日に買ったのだろうか。
 僕は本当にジョニーのことを気にしていたわけではなかった。ハリー・ポッターなどましてどうでもよかった。ただ何かしら日常的なことを冷静に考えることができる自分を確認したかっただけなのだ。しかし、日常世界を想起したことがかえってこの今の異常な事態との落差をはっきりと感じさせ、僕の混乱と動揺はさらに激しくなった。青や緑や橙の光。ぼーん。どどーん。という音の波。今や音と光すら一体化しているように思えた。
 すぐに僕のあらゆる感覚はその巨大な何かに支配され、やがて僕自身がそれに吸い込まれ同化してくように感じた・・

   *   *   *   

 高校2年になって、僕は受験のため予備校に通い始めた。
 予備校は高校から自宅への帰り道の中途にあった。だから普通に考えれば、高校の授業が終わってから適当に遊ぶか自習して時間をつぶし、それから予備校に直行するのが時間的に効率がよい。しかし僕はやはり授業が終わると自宅に最速で直帰した。そして新聞を精読し日本茶を飲み終えてから、ついさっき乗ったのと反対方向の電車で予備校に向かっていった。それに僕は何の疑問も覚えなかった。
 大学生になってから、サークルの仲間とランチをしているとき、この高校時代の習慣について話したことがあった。それを僕はたとえば「昨日大学どおりのイタリアンの店初めて入ったけど、美味かったよ」という話をするような尋常のテンションで話した。しかし予想外にも皆はそれを聞いて爆笑し「そんな高校生ありえねえ」とのコメントを頂戴した。僕はその場ではつられて笑ってみせたが、内心では衝撃を受けていた。
 まあ確かに同じ習慣を持つ高校生男児はあまりいないかもしれない。でも新聞を読み日本茶を飲む行為のどこがおかしいというのだ?おかしいのは僕なのか?僕は不安になって、テーブルの上の林檎ジュースをストローで啜った。

   *   *   *   

 「林檎食べますか?」にゅっと突き出される手。その親切な言葉と違って声は無機質で無感情だった。
 僕は反射的に林檎を受け取った。それから何か言わなくてはならないと考えた。しかし「ありがとう」というのは何故かこの際どこかそぐわない気がした。
 そういえば田卦中は下北半島で教義を学んだと言っていた。この男も下北半島と関係があるのだろうか。
 「この林檎は青森の林檎ですか?」深く考えずに僕はそう言っていた。というより、何故自分がそう言ってしまったのかわからなかった。
 「青森ではない。ザグレブの林檎です」男は怒ったように答えた。ザグレブ?ザグレブは林檎の産地なのだろうか。しかしそもそも僕はザグレブが世界地図上のどの辺りにあるのかを僕は知らない。
 「自分は立鼻ピン輔といいます」男はやはり怒ったように続けた。「あなたは?」「僕は、ええと」
 何せ状況がつかめないため、普通に名乗っていいものだろうか、と迷っているうちに、また「自分はフランスパンです」と考えがまとまらないまま言葉が出てしまった。「フランスパン?」ところが立鼻は今度は急に笑顔になった。「やはりパンはフランスパンに限りますよね、そうですよね!」ますます訳がわからない。
 そのとき僕は唐突にザグレブがクロアチアの首都であることを思い出した。「ザグレブってさぁ、クロアチアの首都ですよね?そんな首都みたいなところでほんとに林檎なんか作るの?」途端に立鼻の顔が真っ赤になった。やあ、まるで林檎のようだ。「てめぇよう、さっきからなんなんだよ。林檎やったのに礼もいわねえ、俺が名乗ってるのにお前はフランスパンとかいってごまかしたつもりかよ?しかも俺の言ったことを嘘だとか言って文句つけやがってよお。ふざけんなよ、おい。なあ」立鼻はかんかんに怒っていた。
 仕方ない、ひとまず逃げよう、と思って僕はまず周囲を見渡した。ここは自宅から徒歩5分の距離にある寂れた公園だ。僕と立鼻が座っているベンチから少し離れた位置で3人の男児が石や岩を蹴って遊んでいた。

 僕はそのまま自宅まで走って逃げた。どうしたことか立鼻が追ってくる気配はなかった。僕は玄関先でゆっくり息を整えてから自宅のドアーを開けた。
 「ただいまー」「あんた、どこ行ってたの。芯ちゃんが遊びに来てるわよ。あんたの部屋に通してあるからね」
 芯くんが来ているのか。芯くんとは半年以上連絡をとっていなかった。つまり今日来るという話は聞いていない。そもそも芯くんとは現在断交状態であるはずだった。
 しかし芯くんは僕の部屋の中央に、ドアーに背を向けてしっかりと座っていた。芯くんは僕が部屋に入るとすぐに振り向いて、「どうしたんです、その格好は」と言って眉を寄せた。そういえば僕は寝巻のままだった。けど僕の知っている芯くんは人の着ているもののことをどうこう言う男ではなかった。
 彼はいつも必ず黒の無地のTシャツと黒の綿パンを着用し、そのTシャツは途方もなくぶかぶかだった。芯くんは身長179cm・体重55kgという、名前通りのかなりの痩せ型体型だったから、身長に合わせると多少横幅が余ってしまうのは仕方ない。しかしそれにしてもぶかぶか過ぎた。あまりにも気になって一度服のサイズを尋ねたら、サイズは全て5Lですと芯くんは言った。何故そんなに大きいのか、しかも何故必ず黒なのか、と重ねて尋ねると、僕は肌が弱いんですよ、という要領を得ない答えが返ってきた。そして芯くんは明らかにこの話題を一刻も早く切り上げたがっている様子だった。そんなわけで僕はそれ以後芯くんの服装については気にしないことにしていたのだ。

 今日の芯くんは体にぴったり合ったスーツを着用していた。しかもよく見るとダークグレーの地に細かい紫のストライプが入ったファッショナブルなスーツだった。そしてそれが驚くほど芯くんによく似合っていた。ネクタイとワイシャツのコーディネイトも完璧といってよかった。
 かつての芯くんは服装もそんなだった上に、髪も常にぼさぼさでフケまみれ、寝癖などは意にも介さず、目は異様にぎらぎらしており周囲の人間に近寄りがたいオーラを発していた。当然女にはまるでもてなかったし、彼自身も女が嫌いだった。
 ところが今日の芯くんは見れば見るほど違っていた。髪は色こそ黒のままだったが、すっきりした短髪になっており、清潔・爽やか・誠実というフレーズを連想させた。また目もとは涼やかで、嫌味のない知性の輝きを含み、以前のようなとげとげしさが消えていた。そういったパーツごとの変化もさることながら、全体としての印象が、かつてはくすんだ茶色だったのが今やホワイトゴールド。オーラが完全に違うのだ。彼が女を好きになったかまではわからないが、少なくとも前よりは俄然女にもてるようになっただろう。その変貌ぶりに圧倒されるあまり、なんで僕の家に来るのにスーツなんだ?というファンダメンタルな疑問がしばらく頭をよぎらなかったほどである。
 僕は芯くんと小学2年のときに知り合い、半年前に僕の裏切りによって決裂を迎えるまで、約15年間彼と交流があった。その間に彼に起きた変化よりも、この半年で起きた変化の方がすでに明らかに大きかった。少なくとも外から見る限りでは。
 「何の連絡もせず勝手に部屋にまで上がりこんでしまい、失礼いたしました」芯くんは優雅に頭を下げた。そうして少し微笑んだ。それはあまりにも美しい、完璧な微笑みで、僕は思わずどきっとした。

   *   *   *   

 「半年前、僕は君に裏切られました。僕がそれまで準備してきたことはまったくの水泡に帰しました。これは今さら言うまでもありませんし、もちろん今さら責めるつもりもありません。そしてそれとほぼ同時期、僕はある女性に長年の片想いを告白して振られました。知っての通り僕は女性が苦手で、これまで出来る限り女性との接触を避けてきました。だから当然それは僕にとって初めての経験で、それでも自分なりに勇気を振り絞ってベストを尽くしたのです。結果ははじめからわかっていました。それはいいのです。しかし、それによって僕は身の程知らず、気持ち悪い男と蔑まれ、果てはストーカーといったいわれのない誹謗中傷まで受けることになりました。どうやら彼女にとって、僕のような男に好かれたことは不名誉極まりないことだったらしいのです。僕は深く傷つきました。自分という人間に対してますます自信を失いました。ちょうど就職活動の最中でしたが、そんなざまですから面接もことごとく落ちました。
 僕はそれからしばらく、あらゆる人間や社会そのものを深く恨みながら暮らしました。僕は常に自分の信じる道に向けて努力してきたつもりなのに、何故こういう目に遭うのだろうと思いました。ところがある日僕は電撃的に気づいたのです。僕はどうすれば、自分とあまりにも価値観が異なるこの世界でうまくやっていけるのか。それには世界が変わるか自分が変わるかしか方法がない。そして世界を変えるよりは自分が変わるほうがはるかにたやすい。だから自分が世界に従えばいいだけだと。つまり、いってみれば、世界は北へ行け行けと指示していたのに僕はこれまで南へ南へと歩いていた。だから目的地に辿り着けないのは当たり前なのに、僕はいつまでも距離が縮まらないと嘆いて、しかもみんなが南に行こうとしないのはおかしいと考えていたのです。はっきり言って途方もない馬鹿です。僕はただちに方向転換しました。僕がどちらに行きたいかなどはどうでもいい。僕は自分の主義やこだわりを全て捨てました。黒の5Lの服だけを着るのも、化石を集めるのもやめました。もともと確たる目標もないのに、つまらないプライドや保守の心のために意味のないことに固執するよりも、この世界に迎合し甘い汁を吸う方が良いに決まっています。しかもそれはとても簡単なことで、僕はただ、世界が何を求め何を良しとするかを知り、その型に自分を当てはめればよいだけなのでした。必要なのは『何をしたいか』ではなく『何をすべきか』である、ということに僕はやっと気付いたのです・・」

   *   *   *   

 という陳腐な芯くん大変化ストーリーを妄想していたら、「そういうわけで、返していただけますか」とリアルの芯くんの声が頭に響いてきて僕は我に返った。
 ああ、またしくじった、と僕は悟った。僕にはこういうふうに時折、自分の空想世界に没入して抜けられなくなる悪癖があり、そのせいでしょっちゅう肝心な部分を聞き逃したり見逃したりして後悔するのだ。
 僕は何を芯くんに返すべきかわからなかった。逆に平山にだいぶ以前に貸したケミストリーのCDはそういえばまだ返してもらってないな、とこの際関係ないことをふっと思い出しただけだった。
 「や、こないだ部屋の大整理をして。どこやったかな。ええと」裏返った僕の弁解の声を聞いた芯くんはため息をついて、「そういうところ、まるで変わってないですね。それに何です、その林檎は」と相変わらず美しい声で僕を咎めた。そういえば僕は貰った林檎を握り締めたままここまで来ていたのだった。
 「あっこれ。これは立鼻とかいう男にもらったんだけどね、せっかくだから持ってく?オレ林檎あんま好きじゃないし」「立鼻にもらった?!」芯くんの顔が急激に青ざめた。
 「何、知ってる人?」「立鼻が君のような男に林檎を渡すはずがない!間違っている!」芯くんはぶるぶる震えていた。僕は芯くんの不審な言動にも驚いたが、それ以上に15年間丁寧語を使い続けた彼がタメ語で喋ったことに衝撃を受けていた。でもあれだけ外見が変化すれば喋る言葉も変わってもおかしくないか。
 芯くんは「失礼する、もう二度と君の前には現れない。FF7の攻略本は餞別だと思ってとっておけ」と捨て台詞を残して部屋を出て行った。「あれ芯ちゃん、もう帰るのー?」「はい、お邪魔しました、突然すみませんでした」階下で間の抜けた挨拶の応酬をする声。
 FF7の攻略本なら本棚にそのまま入っていたんだけどな。あんな爽やか好青年に変身した芯くんが今さら家でFF7をリプレイするのだろうか。いまいちイメージがつかめない。

 ソファに寝転がって林檎を天井に投げてはキャッチし、投げてはキャッチし。今日会った人間は、田卦中といい立鼻といい芯くんといい、誰も彼もがどこか変だった。けどもしかすると僕自身も同じ程度に変なのかもしれない。そんなつもりはないんだけども。
 力の入れ加減をしくじって、投げた林檎が天井にぶつかった。跳ね返った林檎は予想しなかった軌道を描いて落下し、僕は林檎を取り損ねた。林檎はしかし破損することもなく呑気に床に転がっている。お前、案外打たれ強いんだなあ。僕はしばらく林檎を見つめた。そういえばあの埋めた6個の林檎は今ごろどうなっているだろう。
 芯くんにも言った通り、僕は林檎があまり好きでない。家の者はみな林檎が好きで、僕だけが好きでないのだ。そんな単純な事実を母親は何故だかどうも理解できなかったらしい。それで僕が大学の近くのアパートに引越したとき、手伝ってくれた彼女は帰り際、果物は栄養があるからなどと言い、僕の制止を振り切って林檎を2つ冷蔵庫に無造作に放り込んでいったのだ。そして翌々日家庭教師のアルバイトに行ったら、生徒のお母さんが、つまらないものですがといってまた林檎を2個くれた。帰宅して林檎を冷蔵庫に同じように放り込み、いったいどうやって始末しよう、林檎ジュースにすればまだ飲めるけれどもジューサーもないし。と悲嘆に暮れていると呼び鈴が鳴って、玄関から顔を出すと後輩の大塩がにこにこして立っていた。「引越ししたって聞きましたんで、はい、まぁ引越し祝いということで」
 どうしてこう誰も彼も林檎を僕に渡したがるのだろう?もしかして人は皆林檎が大嫌いなのに、俺は林檎好きだよ、林檎最高、でもこんな最高な林檎ちゃんを俺なんかが独り占めするのは勿体ないし、罪だよね。だから君にもあげちゃおっかな。なんてふうを装ってできるだけ他人に林檎を押し付けるのが実は暗黙の世間の常識、それで要領の悪い僕が結局林檎を一手に引き受ける羽目になるのか?
 といった妄想を束の間楽しんでみても、我が家の手狭な冷蔵庫に林檎が6個もごろごろしているという厳然たる事実はどうにもならない。何しろうどん玉や醤油やブルガリアヨーグルトといった主力メンバーのスペースが圧迫されており、もはや予断を許さない状況であった。で、僕は大塩やなんかには悪いと思ったが、6個の林檎をことごとく庭に埋めたのだった。
 だが林檎の思い出にふけっている場合ではなかった。事態はあまりにも複雑すぎた。
 僕は問題を整理するために今日のこれまでの出来事について振り返ることにした。するとすぐに「田卦中は照明の専門学校に行っていたと聞いたが照明の専門学校とはどんなことを教えるのだろうか」「平山には最近会わないがケミストリーのCDは今でも聴くのだろうか」といった疑問が雲のごとく沸いて出たが、それらはまるで問題の本質とかけ離れていた。けれども、じゃあいったい何が問題の本質といえるのだろうか。

 小半時が過ぎ、やっぱり林檎じゃないか、と僕は結論を出した。
 謎の光と音の洪水にやられて意識を失ったあと、最初に意識がはっきりしたのはこの林檎を渡されたときだった。
 芯くんは立鼻が僕にこの林檎をくれたというと、血相を変えて帰ってしまった。
 そして、天井にぶつかり床に自由落下して激突した衝撃にもこの林檎は耐えた。
 ただごとではないという気がした。立鼻がこれはザグレブの林檎だと言い僕はそれを疑った。けど多分これは本当にザグレブの林檎で、ザグレブの林檎は青森の林檎などとは根本的に何かが違うのだ。間違いない。

 僕は自宅でもっとも切れ味のよい包丁をキッチンから取り出し、雑巾をテーブルの上に置いてザグレブの林檎をその上に乗せた。
 雑巾を敷いたのは誤って包丁でテーブルを傷つけないようにという配慮だが、この非常事態にそんな小さなことを考えてしまう自分が本当に情けない。臆病で、卑怯で、優柔不断で。一方、雑巾の上に置かれた林檎はさながら玉座を得た王のごとくで、先ほどまでは気付かなかったが、崇高な威厳を発しているようだった。
 僕の緊張は今や極限まで高まっていた。
 つまりこれはパンドラの箱だ、と僕は思う。僕が林檎を切れば、中から怒りとか悲しみとか嫉妬とか裏切りとか、あらゆる不幸が飛び出してくるかもしれない。そんな危険をあえて冒す必要がどこにあるというのか。今日の出来事など忘れてしまって、林檎はまた土にでも埋めればすむじゃないか。でも僕は、決意を変えなかった。たとえ苦難が待ち受けていようとも、そこにほんの少しでも光が見えるなら、僕はその光を追いかける。パンドラの箱の奥底にさえ希望は残されていたのだ。
 「どりゃあ、ドリアが喰いてぇ!」僕は絶叫して、ザグレブの林檎めがけて力いっぱい包丁を振り下ろした。(了)

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