アポリネール:性、秘密、性的主体

ギヨーム・アポリネール (Guillaume Apollinaire) 。フランスの詩人、小説家。

詩で有名だと聞いていたのだが、Folioというフランスの文庫版みたいな版で、彼の短編小説があったので買って読んでみている。いまだいたい半分くらいまできている。

Les exploits d'un jeune don Juan、というタイトルで、日本語なら『若きドン・ジュアンの勲功』とかだろうか、邦訳は『若きドン・ジュアンの冒険』となっていて、内容的には「冒険」であってるのけど、exlpoitは冒険を経たうえでの達成というニュアンスだから、「冒険」という訳語はどうなのかしら、と思わなくもない。

タイトル通りの内容で、いってみれば、優れた官能小説といったところ。フランス語だと煽情的なシーンはこういう風に言うんだと、今後果たして使う機会があるのかわからない言葉、コロケーションを学べている。

それでこの小説、『性の歴史』でフーコーが引いた『わが秘密の生涯』(著者不明)みたいなところがある。というのは、「己の性をすべて語れ」という命令(consigne)のもとで、「若きドン・ジュアン」はあらゆる自己の性体験を語っている。

「性の告白」としてながめてみると、2つ目を引く点があると思う(とはいえ、まだ半分しか読んでないので暫定的に)。

1)視覚の圧倒的優位。「若きドン・ジュアン」の性的興奮はそのほとんどが、女性の身体のきわめて詳細な描写として登場する。彼の身体そのものの性的感覚も描かれはするのだが、基本的には女性の身体への微視的な視線が中心的であると言ってよい。しかも、この視線は多くの場合「窃視」である。「若きドン・ジュアン」の性体験は、「物陰からの視線」としてまず開始している。この視線の非対称性、つまり、見られる側は自分がみられていることに気づいておらず、見る側=若きドン・ジュアンのみがみているということ。ここに「秘密としての性」というモデルがあるということは、あまりにもフーコー主義的すぎるだろうか?

2)性対象として認識されることへのメタ認識。これには、ひとつのパッセージを引くのがわかりやすいだろう。

  ―Ma mère était en jupon et l'avait retroussé jusqu'au-dessus du genou pour se couper plus commodément les ongles. Elle m'avait laissé voir ses jolis pieds bien en chair, ses beaux mollets nerveux et ses genoux blancs et ronds. Ce coup d'oeil jeté sur les jambes de ma mère avait fait autant d'effet sur ma virilité que les attouchements de ma tante. Ma mère comprit probablement cela aussitôt, car elle rougit et laissa retomber son jupon. (p.18)

拙訳だとこんな感じだろうか。

  「僕の母はスカートで、それをひざ上までたくしあげ、爪をきりやすいようにしていた。彼女は、肉感的なその美しい足、筋ばったふくらはぎ、白くて丸いひざを見せるがままにしていた。母の脚部へと注ぐこの視線はぼくの男の活力をかきたてたが、それは、叔母がぼくの体に触れるときと同じくらいのものであった。母はたぶんそのことをすぐに察したのであろう、というのは彼女は顔を赤らめてスカートを元に戻しのだった。」

「僕」はまず、母の身体に対して性的に興奮を覚えている。そして、母はそのことに気づいて、すなわち、自らが性的な対象として認識されていることを認識して、スカートをおろす。ところが、である。この母の行動の動機は、あくまで「僕」の認識に過ぎない。「僕」は、母が「僕」の内面を知っていると「思っている」。つまり、他人が自分に対してもっている認識を推察する、という高度にメタ的な認識がある。このメタ認識の可能性の条件は、「僕」は自分自身を「十分な性的存在」とみなしていることである。なぜなら、「僕」の視線が母を「赤らめさせる」ためには、「僕」の視線に性的な含意がなければならないからであり、とはいえ、実際に母が「僕」の視線の性的な色合いを感じたかどうかはわからず、あくまで「僕」が「母は僕の視線の性的ニュアンスを感じ取っているだろう」と考えているにすぎないからである。したがって、「僕」自身の性的存在としての「自己資格化」
と呼びうるものが引用した場面のようなモノローグが可能であるための条件である。
ここに、「性の主体として自己をみなすこと」と「性的快楽を得ること」が同時に存在していることを指摘することはできないだろうか。つまり、性的快楽は自己を性の主体とみなすことなしにはありえない、というモデルが存在しないだろうか。それとも、このような読みはやはりあまりにもフーコー主義的だろうか。

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