シンクロニシティについて

2023年のM1では、シンクロニシティは準々決勝敗退となった。
準々決勝は見にいけなかったが、3回戦のネタをみるかぎり、シンクロニシティは決勝でも十分うける漫才である。
シンクロニシティのネタを、テレビで彼らをみられないことを嘆きつつ、批評してみよう。

シンクロニシティのボケ吉岡には独特な雰囲気がある。つねに無表情で、たんたんとことばを発する。逆に、ツッコミの西野はいたってふつうである。独特な吉岡とふつうの西野のならび自体が、彼らの漫才に特有な世界観を与えている。

ところで、独特な空気をかもしだすコンビとしてハイツ友の会をあげることができる(このコンビも準々決勝敗退となった)。ハイツと比較するとシンクロニシティの独特さの特徴がきわだつ。
ハイツは、コンビの2人ともが、シンクロニシティの吉岡に似ている。つまり、無表情でたんたんとボケをくりかえす。このコンビには、シンクロニシティ西野のような「ふつう」の世界の人間がいない。そのために、ハイツの漫才ははじめからおわりまで、なにかふわふわしたような不思議な雰囲気がただよう。舞台のうえで発されたいくつものボケがいつまでも残っているようである。

いっぽうシンクロニシティでは、吉岡のボケに西野がツッコむことで、舞台上の不思議な空気感が解消される。緊張と緩和とはいまも笑いの基本原理であるが、シンクロニシティの漫才はこの原理に従っているといえる。

だが、シンクロニシティを伝統的な笑いの構図のみに還元してしまってよいのだろうか?彼らの漫才には、緊張と緩和を基本としながらも、それとは異なるものがあるのではないだろうか?

シンクロニシティの漫才をみた人は、吉岡のボケに西野がツッコむことでひとつひとつのボケが、風船をわっていくかのように、気持ちよく受けていくのを感じる。しかし同時に、吉野にたいして、ある種の奇妙さを覚えるだろう。

その奇妙さは、吉野と西野の会話がかみあわないこと、そもそも2人が会話をしていないことに由来する。吉野は、西野のツッコミにたいして基本的に反応しない。彼らのあいだには、日常的なことばを使えば、「会話のキャッチボール」がない。より正しくは、西野は吉岡のボールをひろって投げかえすのだが、吉野は勝手に投げるばかりで受けとることはない。吉野と西野の間で交通が閉ざされているのである。

ここでふたたびハイツ友の会をとりあげよう。彼女らの漫才では、奇妙な雰囲気がただようだけで解消されないのであった。ところが、実際には彼女らのボケにツッコむ人々がいる。観客である。ハイツの漫才は、観客おのおのが独語的にツッコむことで全体として成立する。放たれたボケたちは観客たちの自発的な反応によって解消されていく。ここに、ハイツー観客という交通が成立する。

では、シンクロニシティの観客はなにをするのだろうか。シンクロニシティでは、吉岡のボケは西野によって解消されている。観客にはすることがない。むしろ観客は、西野と自らを同一視することで笑うことができる。西野=観客というわけである。だがここで思いおこすべきは、西野と吉岡の交通は絶たれている、ということである。吉岡と西野のあいだに可能な接続がない以上、西野と同一化した観客は、吉岡とつながることができない。観客にとって吉岡ははじめからおわりまで隔たれたところにいる人、なのである。

こうして私たちはシンクロニシティのもつ独特な雰囲気を理解できる。彼らは、吉岡のボケと西野のツッコミをつうじて緊張と緩和のサイクルを演じる。だが、吉岡と西野の交通が絶たれており、観客は西野と同一化するので、吉岡という存在は観客にとってたどりつけないもの、不思議なものでありつづける。

この見地からすると、シンクロニシティ西野の感動的なまでのありきたりさ、ふつうさ、平凡さは、観客と西野の同一化を可能にし、そのことによって吉岡の不思議さをきわだたせるきわめて重要な要素であるといえるだろう。


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