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【自分史】上海で衝撃を受け、アジア出稼ぎに行くまでのストーリー

3連休最終日のスタバでこのnote書いていますが、台湾の中高生は本を何冊も積み上げガッツリ勉学に励んでおります。

中間テストや受験という人生のマイルストーンに向け必死に取りん組んでいる姿は大変素晴らしい。

学校卒業して就職してしまうと、通常は一気に40年走り続ける必要があるので、細かなマイルストーンが無くなってしまう。だから社会人は勉強をしなくなる、っていう話を最近誰かと話した気がしますが、コレは考えさせられますね。

大人になってからは、自ら課題設定をし、自らのモチベーションを高めていかなくてはならないので、やる人 or やらない人で人生の差がつくのは至極、当たり前ですね。(自戒)

さて、今日のトピックはふと自分って何がしたいんだっけ、そもそも何で海外に出てきたんだっけ?何か成し遂げたっけ?

あ、、、やべぇ、、

何も成し遂げてない、、

と今に至ります。なので33才と妙齢になった自分をいま一度奮い立たせるべくnoteを書いていきます。

自問自答のQ&Aスタイルでなぐり書きスタイルですので、読みにくいと思いますが思考整理の為、お許し下さいね。

【今回のお話区分】
原始:0-5才
古代:6-12才
中世:13才-18才
近世:19才-22才
近代:23才-29才

現代:30才-33才

世界史の中へ!

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学生時代から歴史好きで、特に世界史が大好きだった自分。探検家のコロンブスやマルコポーロが書物に残した世界観にワクワクしていた自分。歴史だけでなく世界各国の地理、人口、産業などにも興味を持ち、学校で使っていた帝国書院の教科書を齧りつくように見ていた気がする。

確かだけど、下記の本だったと思う。15年前に使ってたものは表紙が青かった気がするけど、とにかく最新版が下記かな?Kindle版が無いのが残念だけど、一家に一冊は欲しいバイブルといえるだろう。

まぁ、そんな感じの歴史大好きだった少年は世界史国語(古文)を武器に国公立大学(国立とはいっていない)に進学する訳だ。

そんな文学青年は大学時代に入り、第二言語を中国語を専攻し、国際経済学ゼミに入るも授業そっちのけで、パチスロ、酒、タバコに溺れアヘン窟さながらの荒廃した生活を送るのだが、ある日学校の掲示板に黄色い紙で「上海13泊14日クルージングツアー39,800円(税込)」という怪しさ全開のツアー募集を発見することになる。

この一枚の募集が、なんだかんだで、自分の人生を大きく変えたと言っても過言でもないと思う。

結果として、一切のボッタクリがなく本当に39,800円で、かつ現地の4つ星のホテル付きの超お得なツアーだったのだ(ツアーと言っても初日と最終日以外は自由行動だった笑)

超大国・中国!

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この時に見て感じた、20年間住んできた祖国「日本」を、しかも対日感情の微妙な「中国」から見たときに、一気に思考が変化し、

うわー上海ってめちゃ都会やん!中国人うるさいけど、みんな本音と建前の中で必死で生きててスゲー!道路の工事一晩で終わるとかクッソ受けるw

みたいな感情が爆発してて、さらには毛沢東って一体何者だ?沿岸部の中国人はウイグル人やチベット人に対してビビってるんだけど、一体どうなってるの?反日のパワーはどっから来てるんだ?一国二制度ってなんだ?え、人民達は敵性国家出身の僕に対してめちゃくちゃ優しいんだが、ゴリゴリの反日国家じゃないのか?北朝鮮とは違うのか?

歴史好きな僕が旅した中国は、燃え上がるような雄大な自然と、多くの血気盛んな民族が一つの屋根で暮らす超巨大で4000年経っても落ち着かない超巨大国家だ。秦の始皇帝以前から始まり、異民族の侵入に怯えながら殺戮と片時の平和を繰り返しながら膨張し、分裂し、再統合を繰り返す地域だ。今後も繰り返し続けるだろう。

実際に、中国各地を回って思うのは本当に広くて、一枚岩で説明できないくらい多様で面白い。上海租界、かつて満州と呼ばれた東北地区の瀋陽や丹東、マルコポーロが東洋のベニスと称した蘇州、チベット山脈にほど近い世界遺産・麗江やシャングリラ。いつも世界史の教科書で眺めていた秦の始皇帝の墓とも云われる兵馬俑のある西安。イスラム教徒の多い新疆ウイグル自治区、そして標高4000メートルの中パ国境超え。

まさに世界史の教科書の内側に入り込んだ気分だ。

いや、そもそも中国の先はどうなってる?シルクロードはヨーロッパまで繋がってるの?中国のもっと先に有る土地を生で見てみたい。それまでの日本だけに閉じこもっていた自分を、世界に突き動かしたのは一枚の黄色い紙と中国に違いない。

長くなったが、中国大陸での旅を通じて、学校を一年休んでも良いので「世界を見てみよう」と決断させてのであった。

バックパッカーから商社員へ!

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省略するが、大学時代にアジア、中東地域を中心に20数カ国を訪れた自分は、多くの現地在住者や駐在員と接してきたので、日本の看板を背負って世界で商売することに強い関心と興味を持ったし、ごく身近にそういった人たちと接触してきたので、ごく自然に商社へ趣き面接し、新卒で商社に入った。就活も4年生に上がる春から開始して、若干遅れ気味の就活だったが、非常に面白かったのを覚えている。

ちなみに面接では、採用担当はそもそもヤラされてるので、ツッコミどころを用意し、こっちが聞いて欲しいことを突っ込ませればそれが採用に向けたフックになることを途中で分かって以降は書類選考以外は落ちた記憶がない。

商社に入ったシンプルな理由は、会社の資本力をもとに国家規模での大きな仕事ができる可能性が高く、かつ特定の国を決めず、いろんな国を数年ずつ駐在しながら働けるキャリアプランに魅せられたからだと記憶している。加えて不順な動機かもしれないが、給与面の待遇も良いだけでなく、豪邸に住み、お手伝いやドライバー付きで至れり尽くせりなのが海外駐在ならではのスペシャルパッケージである。(もっとも最近では本質的ではないそういったコストは削減される傾向にはあるのだが)

商社退職!

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もっとも、新卒で入社した会社は、外資系や大手ベンチャーのようにアップダウンの激しいアグレッシブな会社ではないが、毎年自動的に全社員の最低昇給2万円(平社員10年目で700万円)という恵まれた環境だったが、海外駐在への道がなかなか遠く、3年で辞めてしまった。

もともといた部署自体が不況の煽りを受けていたこともあり、10人以下のメンバーが毎月退職していく環境だったし、他の部署へ異動しても会社のメイン事業である鉄鋼事業がこの先も日本の産業界においてメインストリームとなることは恐らく無いのではないか、だったら3年で見切りを付けて、遠回りになるかもしれないが、ITや語学を身に着けてグローバル人材になったほうが良いのでは、、そんなことをぼんやりと考えていた気がする。

世代こそ違えど、先輩社員に可愛がって貰えていたし、貿易や商売の基礎を学ばせて貰えたことが多く、その後の起業や人付き合いでも活かせて、入社してよかったと今でも思える会社である。

北海道外資農園で屯田兵!

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実は商社を辞めた後は、海外で働くことはあまり考えておらず、最後の給料を叩いてフィリピン留学へ行こうとしたのである。当時は2014年時点でフィリピン留学は今ほどメジャーではなく、一部の日本人の中で「英語を習うならフィリピンだと安く学べるらしい」といった話がチラホラと有ったのである。

で、会社一社目を辞めたときに、最後の給料出たらそのお金を元手にフィリピンへ行こうと決意したのですが、どうやら前職では給料は当月締め当月払いの給与システムだったみたいで、完全にやらかしたのを覚えていますw

で、払える家賃も無くなったので、引っ越しバイトを掛け持ちしながらその日暮らしをしていましたね、で、ちょうど家賃契約も辞めたタイミングで切れたので、

「うーむ、どうしよう。フィリピン留学資金を貯めるために住み込みバイトしよう。よし北海道で住み込み農業バイトだ!(謎)」

といった感じで思い立ち2日後くらいに新千歳空港へ降り立ったのを覚えています。

バイト先はあのバナナでも有名で近年伊藤忠に買収された外資農園だった気がします。何百ヘクタールも広がる土地を日々、地元のおじいちゃん、おばあちゃん達に混じり農機を使って整地して、種植して、収穫してを繰り返していく中で「健康的でいいなー、農業も悪くないなー。てか高齢化で土地余るし、外資系企業がここまで進出してくるほど耕作放棄は深刻化してるんだなぁー」なんてのを考えていたのを覚えています。

で、毎日広大な大地で暮らし、朝7時から太陽を浴びて、汗をかき、美味しいごはんを食べて、温泉を楽しむ農業ルーティンを繰り返すうちに、徐々に活力を取り戻していきました。

アジアへ!

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「あ、そろそろ本格的に働こう、よしアジアでも行くか」

そんなことを思いつき、早速シンガポールやインドネシアに有る日系エージェントにメールをしてアポを取り付け、2014年GW頃に北海道→名古屋→クアラルンプールとLCCでさっそうと乗り付けます。

続く(たぶん)


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