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あらゆる占術は、それを使う人間の意志をシビアに問うてくる

私は、昔から占いが好きです。

当たる・当たらない的なエンタメ要素の強いものはもう飽きてて、西洋占星術に片足突っ込み始めた2016年からは、先人達が築き上げた叡智って本当に素晴らしい!!ありがとう!!という一心で、好き。

今年に入って卍易風水を学び始めて、人生で初めて命占ではなく卜占(ぼくせん)に触れている訳ですが、これがまた面白いんですねー!

*命占:生年月日から人の生まれ持った情報を読み解く
*卜占:ある占的に対して、出たコインやカードなどの偶然性から吉凶や解決策を判断する

卍易は断易の一派なので、吉凶が非常にストレートに出ます。扱うのがちょっと怖いわ…ってぐらいハッキリ出るし、高い的中率を誇る。
望みが叶うのを阻む状況や、実は本気で望んでいませんね?という心持ちが如実に反映されて「おぉ、なかなかに厳しいねぇ……」と出てきて驚いたりするし、ちょっと落ち込むこともあります。(読み解きの練習過程で、です)


でも、その時、いつも立ち返るのですよ。

「厳しい」とか「キツイ」というのは、あくまで人間から見た目線、基準でしかないんだよなぁと。つまり、自分の色眼鏡を通した主観でしかない。

卍易だけでなくて、あらゆる占術は人間に対して「これがダメだ」「これが悪い」と価値判断を下すわけではないし、行く手を阻んだり、望みが叶うのを邪魔している訳でもない。

今の状況は(高い視点で見た時に)こうですけど

あなたは、どないする?

って理路整然と、人間のちっぽけな価値判断を一切抜きにして、現在の状況や未来に起こりうる可能性を示してくる。そして、最終判断は常に私たちに委ねられている。

だから、どう受け取るのか。受け取ったものをどう活用するか。それは、常に人間の意志に問われているのだと感じるのですよ。
この点に関しては、西洋占星術や四柱推命といった命占も一緒です。


だから実は、占術って人を選ぶんだなぁと私は思っています。宇宙からは一切の忖度なく全出しで情報提供されるけど、それを扱う人の受け取る器がないと多分それは、全く響かないのですから。

私も、占術を扱う人間として、そして占術の恩恵を活用してさらに人生を発展させていきたい人間として、ここは忘れないでおきたいなぁと思うのです。

(余談)
そんな訳なので、占う側も自分の主観を一切脇に置き、導き出されたものをただ丁寧に読み解いて提示するに徹しなきゃいけない。
読み解きの段階で主観がほんの少しでも混じると、結果を正確に読み取れなくなって歪んでしまう。だから「受け取ったものをどう伝えるか」の鍛錬が超必要なので、言語化力や伝達力が試されてます。ここもね、難しくも面白いです♪




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