私は何のために風水という叡智を使うのか
つい先日、卍易風水の全ての授業を修了しました!もうすぐご依頼くださった鑑定も始まります。
本当にあっという間だった1年間、素敵なお仲間と一緒に学ぶことができて良かったなぁとしみじみ。
最後の授業では「理(ことわり)」という形で、卍易風水の哲学を学んできたのですが、私は東洋哲学が大好き!
この1年でどっぷりと魅力にハマり込んだのですが、東洋哲学の神髄には
自然と人間の調和
があります。ここは、西洋思想・哲学と全く違う点じゃないかなぁと。
(もちろん、東洋が良くて西洋が悪い、という善悪の比較でないことはここでハッキリとお断りしておきます)
ここからは私の体感値の話なのですが、
昨今、大衆向けに蔓延している星読み、引き寄せ、スピリチュアルといった類では
「いかに自分の願いが絶対的に叶うか」「自分が特別で在れるか」という自我が非常に強めな言説ばかりだなぁと思っていました。
自我が強いことは悪いことじゃないし、欲望を持つことは自然なことなんだけど、それが行き過ぎている感が否めない。
私がそこに危うさを感じるのは、
自分のことばかり(天命、使命といった特別さへの崇拝、目に見える豊かさを尺度とした他者との比較)で目の前にある幸せに全く目が向いておらず、
自分が理想とするインフルエンサーや誰かの言うことばかりを「良い事」「私が叶えたい未来だ」と信じて疑わず、盲信して聞いてしまっていること。
こういう時ほど、欲望が叶うことを「善」として、叶わないことが「ダメ」という自己否定にいとも簡単に繋がってしまう。
そして確実に「欲望が叶ったら、もうネガティブなことは何も起きないはず!」という、絶対に叶うはずのない幻想を抱いてしまうのですね…。
その結果・・・
欲望に執着するあまりに自分を見失って、自分の欲望や理想の誰かを「自分よりも上に」置いてしまっていること。
ここが最も危うい、脆いポイントだなぁと思うのです。
でもさ、これめっちゃ分かるわ。私も気を抜いたらこうなるもん。
私たちが子どもの頃から今に至るまでに教育されている「他人との比較」って、凄まじい威力です。
テストの点数で無駄に競わせるのも、運動会や体育でわざわざ順位を付けられるのも、受験や就活の競争も、
まったく無い国だってあるのに(北欧とかね)日本は幼少期から叩き込まれる。
そりゃあ骨の髄まで染み込んでいるレベルですよね。
良いか悪いかは置いておき、調和とは程遠い世界観な訳ですよ…。
だけど、大人になればその影響は自分で無効化することができる。
そんな在り方が嫌なら、NOと言えるようになる。
私にとって、この点を気付かせてくれた偉大な師は東洋哲学でした。
さっきの話に戻りますが、東洋の神髄は「自然と人間の調和」。
自然には必ずサイクルがあり、ずっとずっと豊作な時期が続くわけではありません。陽が極まれば、陰に転じます。
種を蒔き、蒔いた種を大切に育ててやる。収穫後に田畑を休ませたり、厳しい冬を乗り越え、育てる種を選定する。
さまざまな”時期”がある。
その全てが大切で、必要不可欠だからこそ、
今の自分に最適な状態に戻して
自分のサイクルを円滑に回していく
ためのツールが、卍易風水だなと思っています。
間違っても、厳しい冬を乗り越えることが必要な時期に「さっさと収穫できるように、秋に逆戻り!!タイムワープさせます!!」だなんてやらんもん(笑)
というか、それは自然に背く行為だから出来るはずがない。宇宙のタイミングを待て、とはそういうことですね。
先ほど書いた自分の欲望や理想の誰かを「自分よりも上に」置いてしまっているというのは、
収穫盛りの隣の田んぼや、お花を綺麗に咲かせている畑を見て「そっちはいいなぁ…」って言って見てるだけ。
というか、他人の田んぼを見ているだけで、自分の田んぼの手入れすらしていない状態かもしれません。
そりゃ実るものも実らんし、花も咲かないよね。
種を蒔いたとしても、育つ環境にしてあげないと育たないし、目をかけてあげることも必要だし。
蒔いた種が、本人の本当の希望とは違っている可能性だってあるし。
長々と書いてきましたけど、卍易風水は
今の自分の蒔きたい種(願い)は本当にそれを望むのか
その種を蒔くのに必要な環境を作ってやれるか
実りを得るのに阻害要因となるものは何か
その種は、いつ実り、収穫できるのか
その為に必要なことを、目に見えるもの(風水)+目に見えないもの(タイミング、心構え)という形で、存分にお渡しするもの。
目に見える物質的な豊かさ、目に見えない精神的な豊かさ、
両方の調和を目指す人に向けてこれ以上ない素晴らしい叡智だなと思っています。
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