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胎内記憶から今まで①

こんにちは👋あるいはこんばんは🌙
葉(よう)です。

今日からは、長くなりそうなことを書くので何回かに分けて、私の胎内記憶から大人になるまでを書いていきます。

ここから先は、スピリチュアル要素満載の内容となります。
そして、虐待を含む内容も満載です。


注:下記にあてはまる方は、ここから先はスルーして下さい。
読んだあとの苦情や否定のコメントは削除致します。

注1:スピリチュアルが苦手な方はスルーしてください。
注2:胎内記憶を信じていない方はスルーしてください。
注3:虐待の内容にトラウマがある方、苦手な方はスルーしてください。






・胎内記憶

胎内記憶は、小さな頃はまだ覚えているという子がいるようですが、私は大人になっても覚えています。

私の記憶は、雲の上でキラキラしたこれからうまれるであろう命がたくさんありとても気持ちよく過ごしていたのですが、突然、私は母親を選択しなければならなくなりました。

母親の画像が次々と出てきて、その中から選択しなくてはなりません。
私は、現世は修行の場という思いがその時すでにあり、優しそうな母親候補の画像をスルーして、敢えて修行になりそうな現在の母親を選択しました。

そうすると、すぐに胎内に入り、ここから修行が始まりました。

私は、胎内に入る前から何故か言葉を理解しており、これが私にとっての胎内修行の始まりでした。

その時、すでに年子の兄が生まれており、母親は私はいらなかったけど、できちゃったから中絶してもお金がかかるし仕方なく産む、という決断でした。

そして、父親がとんでもないろくでなしで、外で酒ばかり飲み、たまにしか帰らず、ろくに家にお金も入れない、お金がないくせに外に女を作ってヒモのような状態なのに結婚した、そんな人間でした。

父親は、酔っぱらってたまに帰宅し、母親とお腹の中の私を罵りました。
また金がかかる、生まれる前に○ねばいいのに、等罵詈雑言を私が聞こえていないだろうと思っていたのでしょう。

母親の思念も、胎内に入ってきます。
今すぐ○ねばいいのに、生まれるときに○ねばいいのに、生まれてきたらまた私が罵られる、また私が義母に罵られる、より生活が苦しくなるの繰り返しで、毎日呪いをかけられている最悪な気分でした。
母親は、自分を守ることしか考えておらず、とても身勝手な人間でした。
修行の為に自分で選んだから、自分でも納得の身勝手さ。


・外に出てみたら

そんな日々が続き胎内が苦痛になり、私はかなり早く外に出てしまいました。人として産まれたのです。
外はとても明るくて、優しい看護婦さんとは対称的な子供を産んだ母親とは思えないうんざりした母親の表情を今でもよく覚えています。

もちろん、私が生まれても父親が来るはずもなく、早く外に出すぎた私は数ヶ月、保育器で過ごしました。
この保育器の中こそが、ある意味この世に降りてきてから初めての私の一番幸せな時間でした。

罵られることもなく、母親はすぐ退院したので思念も近くになく、看護婦さんはとても優しくて。

そして、程よく育ってきたところで保育器を出て、私は退院しました。
生まれる前から言葉を理解していた私には、本当に過酷な修行がここから始まるのでした。

事あるごとに、「あんたなんか産むんじゃなかった」「さっさと○ねばいいのに」「その辺の車がひいてくれたらいい」等々。

父親は、帰って来る度に、私だけに暴力を振るいました。母親は、まるでそこに誰もいないかのように振る舞い、なかったことにしていました。
兄は、自分に火の粉が飛ぶのが嫌なので、母親と同じ反応でした。
父親が私にしか暴力を振るわない理由は、母親はいないと困るし、兄は跡取りなのでとても大切にしていました。

罵詈雑言を浴びせられ続けたので、言葉を発するのが危険と判断した私は、一切の言葉を発するのをやめました。
泣いても、笑っても、罵られるからです。
もちろん、色々試して黙っているのが一番安全と判断しました。

3歳になり言葉を発しない私を父親の方の祖母が、おし(現在は使われない。ものが言えない人)なのではないかと医者に連れて行こうとしたので、面倒だと思い一言だけ発しました。

それからも、ほぼ言葉を発しない日々が続き、父親はめったに帰らず、帰ったら私は暴力を振るわれ、母親はまるで何事もなかったかのように無視。
父親があまり寄り付かず家にお金も入れないギリギリの生活を何とか支えていたのは、母親が家でミシンの仕事をしていたからでした。母親のストレスは全て私にぶつけられました。


兄は、大きくなってきてからも跡取りとして大事にされており、相変わらず私が何をされていても助けようともせず、見てみぬふりをしていました。
兄の見てみぬふりは、まだ小さいからかと思っていましたが、大きくなっても同じ。自分は関係ないと思っているように見受けられました。

父親から私への虐待は、どんどんエスカレートしていき、パーではなく、常にグー👊で殴る、蹴る、ビール瓶で殴られる、椅子やその辺にあるもので殴られる。血を見るまで止めなくなっていきました。

私は、身体は常にアザだらけ、口の中がよく切れて、鼻の毛細血管もボロボロで鼻血ばかり。鼓膜も傷つき耳も痛いし、額が割れて血だらけになっても、誰も病院に連れていってくれない。私もお金を持っていないから病院に行けない。
学校の保健室で先生に見せたらびっくりして病院に連れていってくれたことも何度もありました。

母親のストレスは日に日に高まり、私は「あんたなんか産むんじゃなかった!この穀潰し!さっさと○ね!」などと言われ、幾度となく真冬の夜に外に放り出されました。

父親方の実家の高い吐き出し窓(1.5メートルくらい)から何度も殺意を持って投げられました。子供なら、死んでもおかしくない高さです。
祖母には勝手に落ちたと言い張っていました。

そんなひどいことを何度もされても生きていられたのは、守護霊様やご先祖様がクッションになってくれて、酷くても脳震盪くらいで済んでいました。母親は、私が擦り傷程度で何故生きているのか、とても不思議そうに見ていました。

私は、言葉を理解しているだけでなく、見えざるものが見える能力も、胎内記憶とともにすでにありました。

この能力は、母親の父方の家系に出る遺伝で、小さな頃は死霊や化け物、鬼が生きてる人間と同じように見えていたため、まっすぐ歩けなかったり普通に会話したりするので母親にとても不気味がられました。

長くなってきたので、②に続きます。

長文お読みいただき、ありがとうございます。


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