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ダウナーのすべて


 「生きているだけで偉い」、という肯定文句がある。一般的には苦難を経験している人間に向かってかけられる労い、という趣が強いだろう。あなたの人生にはあなたを苦しめたり辛くさせたりする出来事が取り巻いているかもしれない。でもそんな状況下の中であなたは人生を諦めずに生きている。それが強さの証左なのだから胸を張って生きていいし、必要以上に頑張って消耗する必要なんかない。そんなニュアンスが込められている。
 実に健気な響きだ。近しい関係の他者からこういう言葉を投げかけられるということは、自分の生を無条件に肯定してくれる他者がいるということだ。それはシンプルに良き人間関係に恵まれているという点で素晴らしいことなのだろう。
 でも残酷なことに本当に生きているだけで偉いのならば、この世に存命しているすべての人間が偉いということになる。偉いというのは通常よりも価値が高いという、比較結果としての言葉だから全人類が偉いというのはどうしても矛盾してしまう。
 だから俺は「生きているだけで偉い」という言葉を耳にする度、または目にする度にどうせならその「偉さ」を担保しておいてくれと願ってしまう。「生きているだけで偉い」のだと相手に言わせてしまうような生きづらさを発生させているのは、大方その相手間とのコミュニティじゃない。そういう言葉をかけてくれるような相手は味方であることが多いし、その狭い円環の中で人間関係が完結しているのならば何ら問題はない。
 しかし残念ながら人間関係というのは複雑怪奇で、自身を取り巻くその円環の中に否応なしに存在することを強要してくる人間、円環の線上にいてほしいのにその輪郭からどんどん遠くへ外れていってしまう人間、そして中心部である自己の部分を芋虫が葉を喰うように徐々にゆっくり蝕んでいくような人間など、世の中には雑多な種類の人間が存在するんだなということを嫌でも認識させられながらその中で上手く折り合いをつけてやっていかなくてはならない。
 当然、「生きているだけで偉い」という言葉や概念をその円環上に満遍なく敷衍させて自己の中心部分を眩しいほどに明るく照射するのには限界がある。
 まったく異なるコミュニティ、環境、他者との関係を構築する中でどうしても生じてしまう軋轢や齟齬、それが自分の劣等な対人能力やコミュニケーション能力に起因することが明白な場合、「生きているだけで偉い」という言葉は催眠に近い自己暗示でしかなくなってしまう。
 もし仮に自分が本当に偉くて、周囲から正当化されるような存在だとしたら自身を生きづらくさせるような不和は一切発生せず、順風満帆で傷口ひとつない人生を送ることが出来るだろう。でも偉いわけがない。労働をする環境下で人格否定にも似たような説教をされる人間が偉かったら、相対的に説教をする側の地位が下がって社会の仕組みが瓦解してしまう。下の立場の者の方が正当なモラルを持ち、上の立場の者がインモラルな指導や教育を行うというハラスメント構造は、それが内面性や道徳的観点という曖昧で不透明なものを担保にして初めて浮かび上がってくるものだからやっている側が自覚しにくいのだろう。
 少なくとも俺の場合はだが(という接頭辞をつけるのも保守的でなんだか気が進まないが)、自分の人格を肯定されることは人格を否定されることを起点にしか起こり得ない。皮肉だ。この世はアイロニカルな事象だけで構成されているんじゃないかと自嘲気味な気分になってくる。
 そもそも俺は偉そうな態度を取る人間が嫌いだ。実質的な地位もなく偉そうにしているならば小物感があってまだ可愛いものの、実際に社会的地位を得ている人間がその肩書き通り本当に偉そうにしているのを見ると虫唾が走る。
 「偉い」というのは何かをやっていいとか、何かをやらなくていいとかの尺度として用いられがちだが、そうであるならば「生きているだけで偉い」という言葉における「偉さ」が「生きづらさ」を発生させている張本人たちの罪を自覚させて改悛させるほどの効力を持つべきだ。その効力を担保してもらえるなら「生きているだけで偉い」という言葉ほど心強いものはない。
 と、まあここまでうだうだ迂遠的に書いてきたが結局は落伍者による社会に対しての陳腐な呪詛みたいなものだ。それだけのシンプルなことだ。

 近年、生きづらさを訴える人間が若者を中心に増えている。増えたのか、今まで存在していたそういう層がネットの普及によって可視化されやすくなっただけなのかはわからないが。
 俺は中学一年生ぐらいの頃から今の今までずっと生きづらくて、いや生きづらいというよりもう自分が本当に生きているのかわからない精神状態で過ごしてきた。
 学校にはちゃんと行ったけれど、ほぼ誰とも喋らず、それが地声が汚く醜い低音だということに対する過大なコンプレックスからなのか場面緘黙症というヤツなのかわからないけれどとにかく他者が怖くて、ずっと息を潜めて生きてきた。
 肉体は不登校ではなかったけれど、精神は不登校のようなものだった。肉体と精神の不一致。思っていることが上手くまとまらず、すぐ声に出てこない。ずっと言葉が喉の奥につっかえている感覚がしていた。それでも親の過干渉な教育方針により「入部届を出してくるまで玄関の鍵は開けない」という今思えば常軌を逸しているとしか思えない措置を講じられてほぼ強引に運動部に入部させられ、「部活に入れば一生ものの友人が出来るから」とかいう短絡的でおめでたい固定観念により人為的に友人を作るよう促進された俺の中ではどんどんあらゆることに対する反抗の芽が多方向に生え始めて、「やっぱり友人っていうのは自然の成り行き的に出来ていくというものだよな」ということを痛感しながら案の定孤立を極めていった。
 だからどんどん人生が嫌になって、このまま心が正常な反応をするとどう考えたって取り返しがつかないほどに病んで生への諦念が募ってくるから、心が正常な反応をしないように自分自身で無理矢理麻痺させて、それを自分でも見えなくなるぐらいの大きいベールで覆い隠した。
 それからずっと、自分が普通に生きているのか、生きづらさを抱えたまま生きているのか、それとももうとっくのとうに生きていないのかはわからない。
 わからないことだらけのこの世の中で唯一わかるのは、自分が抱えるこの悩みみたいなものを絶対に意味のないものにしたくないという、自己庇護にも似た克明な欲求だけだ。

 前述したように悩みを抱えた若者が増えたからか、最近本屋に行くと「生きづらさ」をテーマにした本をよく目にするようになった。どう生きればいいか、どういうメンタリティを志向すればいいかを指南するものが多いように思う。
 それはもちろん悪いことではないし、著者の方々にはおそらく自身の過去の経験をもとに自分と同じような生きづらさを抱えた人を救済したいという想いがあるのだろう。俺もそういう想いを持つうちの一人だし、誰かに向けられた優しさが別の誰かを傷つけるものに一切変容することなく純度そのままの優しさとして伝播すればいいと思っている。でも俺は今までの人生の経験の集積でそう物事が上手く運ばないということを学んだ。
 生きづらさというのは時間をかけて徐々に蓄積されて形成されるものだと思うから、即効で完治するということは考えにくいし仮に出来たとしてもそれは後々に副作用の出るような荒療治になる。
 だから俺はゆっくり時間をかけてじわじわと効いてくる遅効性の治癒方法しか信頼していない。そしてその方法として採択されるのは信頼できる他者とのじっくり時間をかけた対話かもしれないし、時間をかけて行う読書かもしれない。こうして文章を書くことも、自他共に対しての遅効性ある治療だと俺は思う。
 でもなんで急にこんなことを書いたかって、カレンダー通りの営業をしなければならない職業に従事している俺にとって明日からまた地獄のような労働が始まることが耐え難く、それが本当に嫌でいてもたってもいられなくなったからだ。正直出来るならば即効性のある治癒方法で心身を回復させたい。しかしそれが出来ないからこんな時間をかけてこの文章を書いた。本当に俺は何がやりたいのだろう。
 結局、ここまで混沌とした精神状態をぶち撒けただけになってしまった。労働その他諸々の苦渋からはやっぱり逃れられそうにないが、後から読み返したら自分の人生における意義ある軌跡のワンシーンになっていることを願う。

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