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なぜミクロ経済学にハマったのか

私の興味分野*はミクロ経済学(と計量経済学)にあったが、以前高校時代の友人から「君は細かいことを突き詰めるのが好きそうだから、ミクロ(経済学)は向いていると思う」と言われてはっと気付いたことがあった。本記事では、私がなぜミクロ経済学を勉強したのかについて、2つの理由を挙げる。

A1: 現実重視だから

まず挙げられることが、私が現実重視だからということだ。

私の理解で言えば、ミクロ経済学はあらゆる事柄について細かく検討し、企業や個人を単位としてそれら経済主体の動きのメカニズムを解くことを目標としている学問である。経済学では現実のある状況をモデリングしようとした際に必ず仮定をおいて経済主体を数理的なアルゴリズムに変換する必要があるのだが、ミクロ経済学においては分析対象を細かく絞れば絞るほどその仮定を少なくすることができるという利点がある。更には、仮定を少なくするだけでなくその仮定をより妥当性をもった仮定にすることができるといった利点もある。

確かに、マクロ経済学や計量経済学は国のような大きな経済主体の動きを理解することや標本から母集団の因果関係を導出することについては秀でているし、学問的にも重要な視座ではあるが、目の前に存在する企業や個人の動きを分析することはあまり重要視されない。しかし、実際には企業や個人は国単位で行動しているのではなくあくまでも自分本位に行動しているのだから、そこを注目しない限り現実に起こる行動やその変化について答えを与えることはできない。

私は現在、大学での勉強において(どの分野であっても)「どうすれば現実に応用することができるのか」を意識している。もちろんすぐさま応用できるものばかりではないが、先に述べたような立場から現実へのヒントとなりうる知識をより学びたがる傾向にあることは事実だろう。

A2: 合目的的だから

この夏に学んだことだが、環境経済学にはこのような主張がある:

「現在から先全ての将来で地球で生きる個人全体の効用を最大化するような行動をしても、現在の地球環境は保全されない。なぜならば、将来地球で暮らすことになる個人の効用は割り引かれてしまい、無視できるまでに小さくなるからである。」

この主張には強く賛成できる。やみくもに環境保全を叫ぶだけでは、誰も環境保全に参加しないのだ*。私は、真に環境保全を実行するには実行する主体にインセンティブを与えて、主体の効用を最大化するような行動と環境保全のための行動が一致するようにしなければならないと考えている。これは必ずしも金銭的なインセンティブである必要はなく、CSRのように社会的立場の維持が根拠であっても構わない。つまり、合目的的でない行動は実現しないので、必ずある一面から見れば合目的的な行動になっていなければならないということだ。

ミクロ経済学においてこの要請は必ず満たされる。というのもミクロ経済学では経済主体の行動は効用の最大化を目的として決定されることが多いが、これは明らかに合目的的な行動となるからだ。その上で別の目的も同時に達成するのかはその経済主体の選択によるが、ミクロ経済学的な思考プロセスで選択された行動は実現可能性が大いにあることが魅力的だと私は考えている。

まとめ

本記事では、私がなぜミクロ経済学を専攻するに至ったかを考察した。経済学は単にお金のやり取りを追う学問ではなく、人や団体の行動が無意識に取る合理的行動を理解する学問であり、むしろそちらの方に経済学の真髄があると考えている。今回述べたようなもの以外でも(ミクロ)経済学を学ぶ理由はあるだろうから、今度仲の良い知人に尋ねてみることとしよう。

*1 学部生たる自分が「専門」ということに強い抵抗がある。詳しくはツイートを参照。
*2 (正・負ともに)外部性が存在するので実際はもう少し複雑であろう。

あとがき

高校1年生のとき、当時担任だった先生が私の平凡な成績を見て「君は数学が苦手で地学や国語がやや得意なようだが、なぜかな」と尋ねたことがある。それに私は「現実に即した科目が好きなので」と答えたことをはっきりと記憶している。今となってはそれなしでは暮らしていけないほど依存している数学だが、当時は非現実的だと考えていたのだろう。この経験を踏まえると、本記事で考察したようなことも、マクロ経済学と計量経済学の不勉強によって視野狭窄に陥っている結果なのかもしれない。自分の専攻に対する専門性(笑)の獲得と同時に広く学ぶ姿勢も欠いてはならないと過去の自分から警告されているのだろうか。

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