「教える」⑤ ~誰のために「教える」のか。今日も居酒屋での愚痴が繁盛する理由~
「教える」。
他人と関わっていく以上、
付き合うことになる問題です。
そして「教える」という事は難しい。
この「教える」という事について考えることが、
1人1人の学びに繋がっていくと思い、続けて述べています。
前回は、結果やゴールのイメージだけを教えても、
それだけでは「教える」ことにはならない。
その結果やゴールにたどりつく途中にある段階・過程・原因も、
教えてこそ「教える」ことになる。
しかし、そこを「教える」ようにすると、
「目的違いの人が増えてしまう」
「もっとピンポイントに教えるべきだ」と思う人がいる。
しかし、ゴールに到達するまでゴールのイメージが正しく伝わる事は絶対にない。
誰もが、誤解し、不純な動機から始まる。
それが「チャレンジしたい」と始めるキッカケや、
「楽しい」と続けられるモチベーションになっている。
そうした思いをへし折るばかりの指導は、「教える」ことにはならない。
ここまで書かせて頂きました。
皆さんは「教える」のは誰のためだと思っておられますか?
こう聞かれると、多くの人がこう答えると思われます。
他人のためだと。
自分以外の人のためだと。
それは決して間違いではありません。
確かに、自分1人しかいない。
他の人は誰もいない。
そんな場面で「教える」という行動が起きることはないでしょう。
相手がいるから「教える」という行動が発生します。
しかし、ここに「教える」という言葉に対する誤解があるように思います。
それはつまり、
自分のためではない。
そう思っている人が少なくありません。
いわゆる「他人ありき」だと思っているのです。
相手がいなければ「教える」という事はありえないのは確かですが、
たとえ相手がいたとしてもどうでしょうか。
相手によっては、他人によっては「教える」ことになるし、
「教える」ことにはならない。
そうした「他人ありき」の「教える」。
「他人のため」の「教える」しか知らない人が多いように思います。
そうした一面が分かりやすく出てくるのが、
いくら教えても教えても、言う事を聞かない。
同じミスを繰り返す。
そればかりか、言い訳を繰り返す。駄々をこねる。
そんな落ちこぼれのような人。
出来損ないに見える人。
そんな他人を相手に「教える」ことが、
本当に「教える」ことになると思えるでしょうか?
「こんなヤツに教えても時間のムダだ」
「どうせ聞いてないんだから、ほっとけ」
そんな思いが出てきてしまうものです。
もっと言えば、
1を聞いて10を知る天才に教えることは「教える」ことになる。
1を聞いても1も分からない落ちこぼれに教えることは「教える」ことにならない。
そのように、
相手次第で「教える」ことにならない事があると思っている。
それは、「他人ありき」の「教える」しか知らない。
「他人のため」の「教える」しか知らない証拠です。
私は、「他人ありき」の「教える」だけじゃない。
「他人のため」の「教える」だけじゃない。
「こんなに一生懸命教えてるのに、全然言う事を聞かない」
「こんなに頑張って伝えているのに、少しも変わらない」
「教える」「伝える」というコミュニケーションに、
こうしたトラブルが絶えず、居酒屋などでの愚痴が止まらないのは、
ここに原因があると思います。
そう。
「自分のため」の「教える」。
これを知らないところにあるのではないのでしょうか?
次回に続きます。
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