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意識の層にある水分に気がついて、私たちは水の中に住んでいるって思ったり。

こんにちわ、Kaloです。

今日は、最近ずっとふんわりアタマの中にあって、
記事を書き始めたものの、途中で止まっていたこの記事を、
ゆるゆると書きながら考えるスタイルで再度挑戦、で、書いてみました。
(まとまるのだろうか.…。)



先日、アマプラで渇水という映画をみました。
日本映画は普段は気に入った監督や作品しか観ないのですが、
なんか。ザッピングしてて、たまたま目にとまったんですね(笑)。

どんな映画かというと
1990年、第70回文學界新人賞を受賞し、第103回芥川賞候補となった河林満の同名の小説を実写映画化した作品だそうです。
(詳しくはリンク先の公式HPへ)

季節は給水制限をするほどの降雨不足で日照り続きの夏。
主人公は水道局に勤める男性。
未払いがたまっている家に行き水道料を督促し、
支払えなければ給水停止をするという仕事を淡々と日々こなしている。

一緒にまわっている部下に
「よくこの仕事、平気でできますね。僕は給水停止(停水)するのって胸が痛みます。」と言われるが「それが規則だから」と淡々と答える。

ちなみに部下は
「太陽もタダしゃないですか。みんなが普通に吸ってるこの空気も。水だってタダでいいと思うんですよね~。」と言う。
(↑これいいセリフなので関係ないけど載せときます。(笑))


主人公の家庭は崩壊していて妻と息子は実家に帰っている。
ある日ネグレストの母親がとうとう出て行ってしまって取り残された小学生の姉妹が住む家に行き、料金滞納をしているので、その家も停水する。
でも、その姉妹との出会いから、ほんの少しずつ変化していき、妻と息子に会いに行く。そして最後には降雨不足で停水されている公園の水道を開放して水をぶちまける….。

ーーーー
この映画を観た直後は特に深く考えなかったです。
普通に、へぇ〜...で、まぁ面白かったな。くらいの感想という感じで。
同じくネグレストで子供だけ取り残されてしまう誰も知らないという
是枝監督の映画をちょっと思い出したりしていました。



そのあと、数日あけて
YouTubeで岩井俊二監督のリリィ・シュシュのすべてが、
期間限定で無料公開していたので観ました。
2001年の映画。
岩井俊二監督の作品は90年代の頃、けっこう好きで。
当時はまさに全盛期。小林武さんとのコンビ作品にハマって観ていて
『スワロウテイル』や『ラブレター』も好きでした。

その何年後かの作品がこの『リリィ・シュシュ〜』。
中学生の話で学校という閉鎖社会でのイジメを表現していることもあって 
その当時は「痛そう」な気もしたし、気にはなったけれど観ていなくて。

でも、今回、初めて観たら、よかったです。
思春期ゆえの痛い場面もたくさんあるのですが、美しい映像のせいか、その痛ささえも生命の煌めきであり、美しいと、私自身が思えるようになったせいか、特に感情を持っていかれることもなく、何か、音楽をきいているような気持ちで観ていました。

そして映画には、2001年当時の映画なのにも関わらず
冒頭から「エーテル」というキーワードが何度も出てきて語られていたり
沖縄旅行にいくエピソードがあって、そこで「マブイを落とす」と
いう話が出てきたり。
あー、まだまだ固まっていたこんな時代に岩井俊二監督、ハヤイなぁ〜。
と思いました。
きっと2001年当時に観ていてもエーテルって、なんのことやら?
だったと思います。

そして久しぶりに岩井俊二ワールドに触れて
改めてこの監督の作品の何が好きだったんだろうなぁ…って考えていて。

ふと思ったのは水分量。でした。



ーーーー
ちなみに、東京のこの夏は暑くて。
でもその暑さよりもずっとその湿度に悩まされた日々でした。
湿度、空気中の水分。

湿度が高いと身体の中にその水分が移るので水分量が増えすぎて辛く。
また、空気が乾燥している冬は身体の水分が持っていかれて、
渇きすぎて辛い。
そんなふうに、普段、物理的な「水」に私たちの身体は反応していて。

身体の中の宇宙でも、
間質液と呼ばれる細胞間に満たされている水分が、
浸透圧のしくみで細胞の外と内の水分量が自動調節されて
身体の恒常性を保持している。

そんなふうにこの物理次元での身体にとって水は欠かせないし、
全ての生き物、いやいや、もうこの地球自体に、
ホント水は欠かせない存在だって。
そんなことは当たり前のように知っているけれど

あれ?もしかして? 気がつかなかったけれど
意識の層にも水分があって、働いているんじゃないかな。
って思ったんです。


気持ちが潤う。とか
心が満たされる。とか
心に染みる。とか
あの人はドライだ。とか
恋に溺れる。とか
しめっぽい話だよね。とか…

気持ちの表現にも
水分量的な言葉が使われたりしているし。って。


そんなことを考えていたら、
先に書いた渇水という映画は、何気なく観ていたけれど、
主人公の心は、毎日の仕事に麻痺していき、カラッカラに乾いてしまっていて。でも、母親に置いていかれた姉妹との出会いをきっかけにして、そこ(主人公の心)に水が浸み込むように戻って来る…。という。

まさに心の水分量自体を表現していた映画だったんだなぁ。と。




ーーーー

『リリィ・シュシュのすべて』を観終わった時に、
映画の中にある「水分」を感じて。

あ、そうか、
映画とか音楽とか、そういったものにも「水分」が含まれているんだ。と。

私たちは、その作品に含まれる水分と自分の意識層に在る水分が、
何か反応、感応しているのだと。

そして、もしかしたら、
作品に含まれた、その「水分を感じられる」時って、
作品の水分量が自分の水分量より多いときで。

それを感じた瞬間に、
それこそ浸透圧で、こちらに水が流れ込んできて、
「沁みる〜〜」みたいになるのかもしれない。



と。ここまできて。


でも例えば、演歌とかって水分量多いよなぁ〜。とか思ったりして(笑)。
心が乾いている時には演歌聴いたら潤うのかもしれないですけど
でも、みんながみんな演歌好きではないなぁ(笑)。と。

だとすると感応しているのは、
ただの「水分」の「量」だけではないのかな。

確かに、湿度が高すぎると身体は不快だし、水に「溺れてしまう」。
何かに心が感応するって、そこに含まれる水分の「量」が多ければいいと言うわけではなくて、それとはまた別に何かあるよなぁ〜、きっと。と。

それってなんだろう?と...。


そんなことをアタマの片隅に置いてしばらく過ごしていてたら、
ある時に、あ?!と「水の結晶」のことを思い出しました。


以前、水の結晶を発見された江本さんのお話を記事で書いたのですが、


水は、人の意識やさまざまな言葉に反応して結晶をつくることができて。
例えば「ありがとう」や「愛」という言葉を伝える(聞かせたり言葉を見せたりする)と、とても美しい結晶をつくるのですよね。
結晶をつくるというのは、たくさんの水素原子同士が、その言葉にある波、周波数に反応して、さまざまなフォーメーションを組むということだと思うんです。

その結晶のカタチは、水に含まれた振動であり、
つまりは周波数のカタチを現しているということで。

つまりは私たちの意識の層に在る水成分と、
作品にふくまれている水成分の周波数が共鳴するカタチ同士だと、
「水」が震えて、それが心を揺さぶったりする。
…のかもしれません。


と。
こうしていろいろと、脳内グルグルで、まどろっこしくなっていますが

言いたかったことは、
物理的な「水」は、実は意識の層にも存在していて。
映画や音楽やアートや
いや、実際はどんなモノの中にも「水」は含まれていて。

私たちは常にその水の揺れというか揺らぎというか、波というか?
(くどい)そんなものを感じとったり、一緒に揺れて変化したりしている
存在なのだろうと。

これって、ある意味、
私たちって実は、水の中に住んでいる。もしくは水そのもの。
かもしれない。ですよね。

そして改めて、思うのは。
身体の中は膜で覆われていて、膜で覆われている中は
水分で満たされているわけで。
その水分が細胞にさまざまな情報やモノを伝達していたり、
月の重力で水が満ち引きして揺れていたりしているということと、
やっぱり同じしくみにも感じて。
結局はまた、私の思考は、フラクタル構造に戻る。という(笑)。

そんなことを妄想していた(笑)昨今でした。



やぁ…なんとなく考察がまだ不完全な感じもしますが。
この不完全な記事を読んでくださった誰かが、
きっと、もっと深い考察をしてくださると思いますので
「不完全さが完全である」と思って(笑)、アップします〜。




最後まで読んでいただいてありがとうございます。

ではではまた〜✨





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