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映画「杜人」の矢野智徳さんの言葉を感じて。



ナウシカのような人に、出逢った。




これは、映画「杜人   環境再生医  矢野智徳の挑戦」を撮った映画監督、
前田せつ子さんの言葉です。

矢野智徳さんに初めて会った時の衝撃を忘れない。
「虫たちは葉っぱを食べて空気の通りをよくしてくれている」
「草は根こそぎ刈るから反発していっそう暴れる」
「大地も人間と同じように呼吸している」
植物や虫、大地、生きとし生けるものの声を代弁するような言葉は
ナウシカのようだった。
風のように枝を払い、穴を掘る様子はイノシシのよう。

こんなふうに自然と関われたらどれほど豊かに生きられるだろう。
いや、人間であることの罪悪感が少しは軽くなるかもしれない。

それから4年後。技術も知識も経験も機材もない中で、彼を追いかける旅は始まった。何処へ行っても、傷んだ自然とコンクリートがあった。
そして、汗だくで草を刈り、泥だらけになって土を掘り、笑顔で帰っていく人々がいた。

2018年7月。西日本で大変な災害が起きた。

被災現場に駆けつけた矢野さんは言った。
「土砂崩れは大地の深呼吸。息を塞がれた自然の最後の抵抗。」

かつての人々が大切にした言葉、
「杜(もり)」=この場所を「傷めず 穢さず 大事に使わせてください」と人が森の神に誓って紐を張った場。


自然と共に生きるすべを、人間という動物の遺伝子はきっとまだ憶えている。この映画がその記憶の小箱を開く鍵となることを切に願う。


監督 前田せつ子

映画「杜人」ガイドブックより


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この映画は、造園家/環境再生医 の矢野智徳さんのドキュメント映画です。

私は矢野さんを存じ上げなかったのですが、
友人が先月「Kaloが好きそうな映画をやるよ」と教えてくれて、
先週末にこの映画を観ました。

そして、めちゃ嬉しくなって、ちょっと涙が出ました。


なんと言ったら良いのか、、、。

矢野さんは、監督の前田せつ子さんが「ナウシカのような人」と
言った表現が、まさに、まさしく、ピッタリ、という存在。

木々や草や葉っぱや土、虫たち、動物たち、水、空、光、 風 ….。
自然の神の声を本当に聴きながら、そして確実に会話をしながら、
(比喩ではなく本当に)
地球が、自然が、「自然であること」、「在れること」のために、
その生命のすべてを使われている人。

日本にこんなに穢れのない美しい魂の人がいる!という喜びで溢れました。


こちらで映画の内容が少しだけご覧いただけます。
そして矢野さんの素敵な言葉も少しだけ聴いていただけると思います。


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矢野さんは北九州出身の方で、お父さんは、海を見下ろす山一つ分の敷地に私財を投じて、四季の植物が見られる植物園をされていたそうで、小さい頃からずっと植物の世話をされていたそうです。

中学の頃には、人と自然をつなぐ仕事をしようと決めていました。

映画「杜人」より

大学を1年休学して各地の風土を学ぶために日本一周の旅に出たそうです。

「自然の中に居ながらにして観察していく。
身体を通して自然を体感するっていうのは、そんな生易しい世界じゃなかった、っていうのが、実際に入り込んでみたら毎日実感できたから。
日々、危険との隣り合わせだっていう。」
「....自然とうまく共生して、地域が地域らしく在れる生活や産業って、地域産業ってどういうことなのかな、っていう。」
「この課題は、自分が直接社会と関わっていく中ではっきり見えてくることだから、自分で業をはじめないと。
ゼロからそれをやろうってことだけは、無事に帰れたら、自分で仕事を始めるっていうのは、それだけはありましたよね。」

映画「杜人」より

ナレーション:ところが、造園の仕事を始めて間もなく、
最初に言われたのはこんな一言だった。

「なぜ木が枯れるのか。息ができなくなるのか。なぜ傷むのか。
それを大事に追っていたら、矢野くん、それをやってたら業は成り立たない。つぶれるよ、っていうふうに言われてきたこと、これが僕の造園の出発点だったと思うんですね。」


ナレーション:時は80年代半ば。大量生産、大量消費の真っ只中。
植物は枯れるから商売になるという考え方が、造園業界を覆っていました。


自分で自分に、つぶれるまでやってみればいい。本当にそう思ったんですよね。なぜ植物が傷むのか、なぜ同じ東京の中で、動植物が育ったり育たなかったりするのか、それを追おう。大事に追うんだ、という課題を持って、各現場と向き合っていくうちに、結局見えてきた世界がこの『大地の再生』でやっている空気と水の循環。絵に描いても見えない世界ですよね。

映画「杜人」より

「もう環境はね、
綺麗事で色塗りされてきちゃったんですよ、環境問題は。
それをいい加減、方向転換しないと、
そこで環境を学ぼうとする人たちをどんなに良い方向に誘導しようとしても、綺麗事の世界で終わって、
現場は、生の世界は空中分解を起こすっていうか、乖離する」


「目の前でいのちが失われる状況になっていても、みんな素通りしている日常を、ほとんど再確認できないんだもの」


「こうやれば、ちゃんといのちの世界は再生するんです、というところまで、関わっていく必要があると思うんですね。
だから仕事ではできないですよ。
仕事としてはもう…。
仕事の領域を超えているし、仕事としてこなせる実力の世界でもないし。
だったらもう持久戦で、
もう仕事を超えて、草の根のように、持久戦で勝負するしか立つ瀬はない」

映画「杜人」より

何がすごいって、矢野さんは、本当に大きな大きな山を前に、ひたすら、ひたすら、それを切り崩していくような作業をされているのですよね。


あきらめない。

全然あきらめていないんです。



もうどうにもできなくなっちゃっているように見える今のこの地球環境を前に戦いを挑んでいる。

それがあまりにも尊すぎて、涙が出てきてしまうんですよね。



だいたい、「仕事」って、なんでしょうね。



世の中、9時−5時だとか花キンだとか言い出した頃から「仕事」が魂と乖離してしまったのかもしれないなぁ。と思います。いや、そもそも「仕事」という言葉自体が、魂と乖離しているのかもしれません。

もしかしたら、ひとりひとりが「仕事」を「ごう」=「魂の仕事」にすることができたら、変わるのでは?と。

…というか、もともと本来の「ごう」を思い出す。という感じでしょうか?



昨年、うちのマンションの枇杷の木の枝が伸びてきたので、剪定を近所の植木屋さんに頼んだら、なかなか日時を決めてくれない上に、やっと来たと思ったら、幹をばっさりと切って帰っていったという。ありえないことが起きて、マンションのみんなで涙しました。昔からの近所のお付き合いでお願いしていた植木屋さんでしたが、もう二度と頼まないことになりました。




きっと昔は誰もが「魂の仕事」を知っていたし、
本当にその道のプロと言われた人たちは、きっと「仕事」を超えた、
ちゃんとした「ごう」だったと思うのです。



今は人のいのちをあつかうお医者さんでさえ、「仕事」です。
そして「仕事」が、さらに「お仕事」というレベルまでになっちゃっている人も多い世の中で、そのこと自体に疑いすらなく、不感症になってしまっているような…そんな気がします。

だから街路樹の悲鳴にも気がつかない。




そもそも、なんのために生きているのか、
なんのために、その仕事をしているのか、
なぜ、その仕事をするのか。

日々の時間、生命の時間を削って
いったい何に費やしているのか。

何が大切なのか。
この生命を何に捧げているのか。


日々、自分の心に問うと、次第に自分が誤魔化せなくなる。
不感症からの第一歩は、自分の心との会話、
多分そんなところから変わるのではないか…。
思い出せるのではないか....。

って、思いました。



と、まとまらない思いをつらつらと書きましたが、
自然との共生について、それを超えて生きるということについて、仕事について、多くのことを考えさせられるとてもいい映画だったので、ご興味がある方はぜひ観てください。



そして最後に、
ふと、ドン・ファンのこの言葉を思い出したので載せておきます。

いかなる道も一つの道にすぎない。
ハートに従う限り、道を中断してもさげすむ必要はない….。
あらゆる道を慎重によく見ることだ。
必要とあらば何回でもやってみるがいい。そして自分に、
ただ自分ひとりに、つぎのように尋ねてみるのだ。
その道にハートはあるかと。ハートがあればいい道だし
なければ、その道をいく必要はない。

カルロス・カスタネーダ「ドン・ファンの教え」より



ではでは、おやすみなさい。

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