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SpaceとPlace 〜心地の良い「場」をつくっていくこと


こんばんわ、Kaloです。

今日の東京は久しぶりに朝から曇り雨で、絶好のnote日和でした。
(晴れていると出かけたくなっちゃって落ち着かないので(笑))
ということで、久々に長文です。



「粒子のリズム」


先日書いた記事のコメ欄で、YUKIEさんが、その記事について

なんとなくLove&rocketsのSweet FAって曲を思い出しました。
Sweet FAってイギリスのスラングで「何もない」って感じの意味です。

と書いてくださり、その曲の歌詞とリンクを貼ってくれました。

その歌詞を読みながら曲を聴いていたら、いろんな気づきが降りてきて。
その気づきをコメ欄で返信させていただきつつ、
インスタの方にアップしました。

私たちは
無限に広がる宇宙そのもの
その空間そのもので

そこには

見えないけれど
たくさんの粒子が
飛び跳ねている

その粒子の

その振る舞いが
波になって
音になって
言葉になって

その振動

そのものが
私をカタチつくり
この世界をつくった

この美しい雲が浮かぶ
この空には

小さな小さなたくさんの粒子が
美しいメロディを奏でている


#粒子のリズム
#美しい雲の理由
#昨日の夕空
#余白こそがすべて
0113/2023

olak_tokyo Instagramより


私たちは空を見上げて雲を見たときに、ああ、面白い形の雲だなぁ、とか、
つい見えているその「カタチ」の方だけを見てしまうのですが。

この雲のカタチになったのはその背景にある空の、目に見えない酸素や水素や、そういった小さな粒子が、その時の風だったり、街の音だったり、太陽の光だったり、人の思いだったり、他にもありとあらゆるさまざまなものの影響をうけて、動いて、飛んで、跳ねて、集まって。
そうして雲の「カタチ」として発現してくるんですよね。

つまりその背景にある粒子が元であり、
その粒子の振る舞い、それ自体がすでに毎瞬、現象化している「コト」
であるんだなぁ。と。


そう思ったら、

言葉になる前の言葉、音になる前の音。
私たちの内側にある空間に常にある意識のバイブレーション。

すでにそれが「自分の粒子のリズム」であるわけで。
その時点で、もう「私」なんだなぁ。と。

私たちは自分という「意識空間」に、どんな粒子のリズムを奏でているか。だけの存在で、「その意識空間そのものが私」なのです。

つまり「粒子のリズム」そのものが「私」なんだ。と。改めて。


そしてその粒子のリズムは、そのまま身体の外に漏れ出ていて、私たちは普段から自分が思っている以上に、目に見えていないその粒子のリズムを感じ取っているんだと思う。

久しぶりにあった友人が「なんか雰囲気変わったよね」みたいなこととか。
昔は気が合わなかった人なのに、急に仲良くなるとか。
この人の作品(文章やアートや音楽)は、なんかわからないけれど好き、とか、惹かれる。とかエネルギーを感じる。とか、そういうものも含めて。

表現やモノとして生まれる以前の意識空間で、すでに現象化している粒子のリズムを実はみんな感じ取っていて。

もはやそっちが全てであって、

そちらの、見えない世界の粒子のリズムに思いを馳せると、
世界の見え方も自分の在り方も、変化するんじゃないかなぁ…。

と。昨日はそうしたことを、ふわっと、綿々と思っていたのでした。




ーーーーー
話は変わって

先のインスタの投稿を、昨年EMPで知り合った友人が読んで、

夜中の仕事帰りに何故かこのカロさんの投稿が浮かんできて自分にもメロディーのカケラが浮かんできたよ♫

とコメ欄に。
彼は、日々即興で歌を作っては、ギターで弾き語りのように歌っているのです。どんなメロディが浮かんできたのか、楽しみなのですが。

追記:バトンを受け取った彼が曲をインスタにアップしていたので
貼っておきます。ハートチャクラが溶けるような優しい歌でした。
(▶️右へ。投稿写真2枚目で聴けます。)




SNSという場所


こうして粒子のリズムが、まるでバトンのように繋がっていくコトってすごく面白くて、いいなぁ〜と感じていて。
私はnoteを含めてSNSの「場」って、こうした繋がりが楽しいんだよなぁ。と改めて思ったのですが、そこで、先日、宮台真司さんが話されていた「空間(Space)と場所(Place)」についての話を思い出したのです。


昨年、宮台真司さんが都立大学の敷地で暴漢に襲われたのは記憶に新しいと思うのですが、その宮台さんが復帰されて、昨年12月に、NEWS PICKSのWEEKLY OCHIAIという落合陽一さんの番組に出演されていたので、この回見たさに1ヶ月分だけお金を払い、視聴したのですが。
(結果、他のWEEKLY OCHIAIの面白そうな回や宮台さんの番組も見れるので、お値段以上の価値で、他の話もとっても良かったので、全編聴きたい方は是非NEWS PICKSで。1ヶ月視聴1700円でした)。

そこで、この記事のタイトルにある「SpaceとPlace」という言葉とその違いについて、宮台さんの話の中に出てきたので、ご紹介します。(有料コンテンツなので控えめに^_^;; )

(大学のセキュリティの話の流れから)

宮台さん:
コロナ以降、日本の大学って守衛さんが門のところでIDカードチェックとかやっているんですよね。
….(中略)
昔のキャンパスと今のキャンパスを比較すると、明らかに人通りが少なくなっているわけです。それは大学が社会学の定番の言葉でいうと「場」、つまりPlaceではなくてSpace「機能的な場所」になっちゃったんだよね。ただ講義を聴きにくるとか、サークルに活動しにくるってこととかですよね。

昔はそうじゃなくて、何の目的もないけどキャンパスに行くわけ。何故かって言うと誰かに会えてダベることができる。あるいはたむろすることができるからっていうね。
そういうある種のカオス的でもあると同時に、いつ行ってもそこに居場所感があるような場所だった
頃にはね、大学にもっと人通りは多くて例えば監視カメラがなくてもね、そこでなんか悪いことをするって言うのが非常に難しかったと思う。

NEWS PICKS/ WEEKLY OCHIAI 「いま、言論の力とは」より


宮台さん:昔、僕たちが居心地の良い場所ってどういうものだったのかっていうこと。を思い返す。それは法が支配する場所ですか?ってことですよね。(ありえないですよね)
…..
社会学の歴史の中では80年代にイーフートヤンという中国系アメリカ人が有名ですが
「我々は場所(これは一般にはPlaceって言います)から、空間(Space)に退落(腐って)きたんだ」っていう言い方をしているんですよね。
さらに90年代になると、ネイティブアメリカン、インディオも研究していた
環境倫理学者のベアードキャリコットが、その空間(Space)、つまり機能的な関係性しかないような時空間と、場所(Place)は何処が違うのか。ということを明確に言明したんですね。

じゃあ場所(Place)は何かって言うと「生き物」なんです
(↓この部分のつづきは一番最後に載せています)

NEWS PICKS/ WEEKLY OCHIAI 「いま、言論の力とは」より


ちなみに、私のSNS歴は、一番古いところではニフティサーブの「パソコン通信」なんですが、まぁそれは置いておいて(笑)。スマホになってからの最初はTwitterで日本に上陸した2010年には、はじめていました。

当時Twitterをやっているのは「人」だった(今のように企業やらボットやら、広告やら、やらせやら、まったくなく)ので、本当にのんびりとしていて、知らない人だけど、なんだか面白いつぶやきをしている人や、なんとなく気が合いそうだなぁ。という人とやりとりしたりしていました。
書く方も制限のある文字数で言葉をどう表現するか、みたいなところの意識が高くて、かなりアーティスティックに工夫していて、とっても面白かったんですよね。あ、そうそう最初の頃にオノヨーコさんにフォローされたのもめちゃ嬉しかったですね。(昨年は宮台真司さんにもフォローされて、それも嬉しかったなぁ〜(笑))

そして2011年に311の震災が起きて。あの時に本当にTwitterをやっていてよかったと思いました。Twitterで友人たちが無事か確認しあったり、余震が続いて心細い中、励ましあったりできた。地震の情報、原発の情報、全部Twitterを見ていましたね。

でもこの震災以降、多くの人がTwitterを使うようになって、さらに年を重ねるごとに、この場所はPlaceからSpaceに変化しました。
つまり多くの情報を集める機能として、とてもいいツールになったのですが、誰かとダベリに行くみたいな、なんとなくそこに集ってオモロい奴と出会う。というような場所ではなくなりました。
(私は今は、素敵な投稿をちょっと遠目に眺めるのと、主にリアル友人とダベるツールとしてTwitterを使っています。)

私はその2011年に、実はインスタも始めていました。インスタもまだフェイスブック(現在はメタ?でしたっけ?)に買収される前で、Twitter以上に、当時ほとんど誰も知らなくて、いいね!ボタンなんて、なかった頃でした。

Twitterが、Space(機能的な場所)に変化し始めて、その空気感を感じて、Twitterで仲良くなった人の多くがインスタに一緒に引っ越してきました。
もちろん、インスタで、はじめて仲良くなった人たちもいて、言葉の世界だけではなく写真がメインになったので、視覚的情報量が増えて、何人かはリアルで会ったりもしました。この頃、インスタは本当にのーんびり感があって、ゆるやかなPlaceだったのですよね。

それが、フェイスブックの買収以降、最初は徐々にではありましたが、今やみるみる変化してしまい、当時の見る影もないSpace(機能的な場所)として、みんなが「集う」のではなく「使う」場所。となってしまいました。



このnoteという場所はPlaceだと思う


宮台さん:
テックと資本主義は、使う側の構えが非常に重要で。
…(中略)
人々が繋がるためのゲーム、ユニバースで繋がって
つながりの喜びを回復するためのテクノロジー。
リアルな世界で繋がるためのテクノロジー。
…(中略)
つまりテックは、テックデザイナー次第なんですよ。
テックデザイナーに身体性と感情の能力さえあれば
それを失わせるテックなのか、
それをブーストする、支えるテックなのかということは
あたりまえのようにわかるんだよね。

…(中略)
僕の言葉で言うと体験デザインが重要なんですよ。
このテックによる体験って人を良い方向に導くのだろうか。
繋がろうと思わせたりとか、「かけがえのないもの」と「入れ替え可能なもの」の識別をさせる体験なのだろうか。ということ。

NEWS PICKS/ WEEKLY OCHIAI 「いま、言論の力とは」より

落合さん:
身体性が失われてしまうと今のSNSは承認欲求のゲームになっていて
RTを何個されたかっていうのは数字でしかないし、フォロワーが何人いるかも数字でしかなくて。数字はまやかしであり幻想であるから別にそこでね、
深いつながりがあるなんてことはないわけですよ別に。
…(中略)
数字の勝った減っただけに執着していると、それは株式にお金を投資して右から左へ流れているのとあまりかわらないだけで、そうなってしまうとお金があるかないかの問題と全く関係ないわけです。
だってお金って単なる約束事で、あれもまぁ、法と同じような問題しかないわけだから、特に全然美しくないし、心ときめかないですからね。
1000回RTされたーって自慢されて、そうですか。ときめくんですか、あなたは、って思っちゃいますけどね。僕はね。

NEWS PICKS/ WEEKLY OCHIAI 「いま、言論の力とは」より


私は、そこがPlaceであったという時代にSNSを始められてよかったなぁ。と、最近、今更ながら思いました。その当時の感覚を残して今もインスタをやっているので、先に書いたように、自分が何かの思いを投稿して、それに誰かが話しかけてくれて、そこで自分にまた新しい気づきがあって、そうしたら、それがバトンのように繋がって…。みたいな一連の流れ。こうした「Place的」な繋がりが、あの中でも、ギリギリできるんだと思います。


昨今は特に、企業の広告というよりも、SNSを自分の承認欲求や宣伝のためだけに使う「Space的」な認識で投稿している人が顕著に多くて…。

結局、テックデザインがそうなってしまっているので仕方がないのですが。

ただもう本当に。見ていて、読んでいて、息苦しいって思う場面も多くて、疲れちゃうんです。それらの投稿は、やっぱり落合さんが言っているように、全然美しくないし、心ときめかない。

みんなが世界に向けて自分を表現できるようになった。というのは素晴らしいし、そういった空間がある。ということもスゴイことだと思うので、そういう意味ではSNSって本当にすごいなぁ。と思うけれど、でも、これってどこまで行っても個の欲求であり、求めるのはメイクマネー、昔の言葉で言うところのアメリカンドリーム?なんだな〜。と漠然と思ったり。
別にそれは全然悪いわけじゃないけれど、そう言った場で「がんばる」というのは、やがて自分をすり減らし、自分自身を消費してしまうんじゃないか...。と思うけれども。どうなんだろう?

そしてSpaceになってしまった場所はやっぱりSpace。
謎アカウントからの「誠実なお友達になってください」みたいなコワイDM(笑)も、最近ちょくちょく入るようになって、もはや安全性さえ脅かされるというか…。(苦笑)


ーーーーーー
そして、そんなSNSがほとんどの中で、このnoteという場は、稀有な存在で、最も心地の良い場。「Place」だなぁ。と改めて思っています。
(noteさん!本当に感謝です。)

まず、あのうざいアルゴリズムによる企業の広告が一切ないというのが、素晴らしい(あれは本当に不快なノイズだと感じるので)。
それから、とりあえず法のお達しの「この記事は〜」みたいな看板はついちゃいますが、逆にそれさえ付ければ大丈夫(いわゆるバンをされることはない)みたいな感じで(笑)、どんな記事も制限なく読むことができるし、書くこともできる。改めてこの自由さの貴重なことよ。と思うのです。

そして、ここに集う人は、基本的にみんな「表現するため」「読むため」に来ている。と思うのです。

だからFBやインスタみたいに、とりあえず知り合いだから、中身読まなくても「いいね」しとこう。みたいな、宮台さん的表現で言うところの、さもしいマインドの人はいないし、
滞在時間も長いんですよね。(←noteさん、これすごく重要って思います)

これってnoteにいる人たちもまた「Place的」マインドの人が多いっていうことなんだと思うんです。だから、コメント欄で話していても、面白いし、そこで新しい出会いと新しい発見がたくさんあるし。


私なんて、昨年、このnoteのコメ欄で話していて、名前の文字を変えちゃったくらいですから(笑)。なつかしい〜。


なので、改めて、note運営の方々には心からの感謝をお伝えしたい。
とともに、この場所が「Place 」であり続けますように。と願います。



ーーーー
さて最後に、先のPlaceについての宮台さんのお話をもう少しだけ。

宮台さん:

じゃあ場所(Place)は何かって言うと「生き物」なんです。

場所という生き物は、人間のライフスパン、つまり人生の長さよりもずっと長生きする生き物で、しかも、場所の全体ってなかなか姿には現れないけれど、大事なことは、みんながその場所にいると同じ世界にいる。って感じられる、あるいは同じ世界でひとつになることができる。
だから、その場所に包まれることで、我々は尊厳を守られる。

ところが我々は、近代民主制の中で一方で「功利論」というのがあって。
自分が意識できる損得勘定の得を最適化しよう。これ「功利論」ですけれど、あと、もう一つカント的な「義務論」というのがあって、人間のやっていいこととやってはいけないことをはっきり自覚する。という意味での倫理を持とう。みたいな話。これはキャリコットによると、壊滅的な退落。
つまり堕落なんですね。それは何故かっていうと、人間中心主義だから。

場所の構成要素っていうのは、人間だけではなくってね。
動物もいる植物もある、ものもある。

これは多分おそらく、シュタイナーの、有名なあの4段階図式ですね。
ミネラル、エーテル、アストラル、イーゴーっていう、そういうさまざまな環境種の有機的な連関が、場所という生き物、あるいは場所として名付けられる生き物の全体性を形作っていて、それを人間の小賢しい損得勘定とか、あるいは人倫の、人間しか相手にしていないような。
そうしてズタズタに切り刻むことによって、場所はつまみ食い。
機能的につまみ食いをしたスペースになる。

スペースになると、その場所を、どう生きているのか?
それはわかりやすく言うと。
機能的な関心を持つのは、人それぞれ違っちゃうんだよね。ってことです。
つまり、いまの冷え切った都会、都市、がそううですよね。
そうすると、残念なことだけど、誰も同じ世界に入ってないわけ。
だから視線を合わせないどころか全力で視線が合うことを回避する。
みたいな。
これ日本では96年から起こった事態ですけれども。

そういうふうな状況になったら
やっぱり人間は尊厳を失うんですよね。

ということで「功利論」、「義務論」ではなくて、
やっぱり場所と、場所の生き物としての全体性を大切にしようと意味での
全体論が大切だよね。

っていう。

NEWS PICKS/ WEEKLY OCHIAI 「いま、言論の力とは」より




めちゃ長い記事になっちゃいましたが。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。


素敵な週末をお過ごしくださいませ。
明日は晴れますように〜。

サポートいつもありがとうございます。 みんな大好き❤️ xxx.LoveLoveLove