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私が想起するディスレクシアな人々2(私自身)

(画像は、NPO EDGEのHPおよびパンフレットから引用しました。https://www.npo-edge.jp )

K君の授業は試行錯誤の連続でしたので、授業後にK君の様子や考察をかなり丁寧に記録し、ネットなどをサーチし、分析していろいろ考えていました。

そこで、ふ、と、「あれ、自分の息子(S君)もそうじゃないの?」と気づき、続いて「私の母(Mさん)もそうじゃないの?!」と気づき、それから何ヶ月も経ってから、「あ、私もそうなんじゃないの?!」と気づいていきました。(本人たちは特定されるのが嫌かもしれないので、私はこのnoteをあまり知り合いに知らせていません)

私は、もしディスレクシアだったとしても(専門家じゃないからわからない)、そんなに強い症状の出るディスレクシアではありません。だから、「困難」と意識化することがなかったのですが、気づいたら、「これは困難だったわ!」と思い当たることがいくつも出てきました。
今日は、それを書きます。
ただ、これら全てが「ディスレクシア」でくくれる症状なのかは、定かではありませんし、ディスレクシアの人すべてにこの症状があるものではありません。ただ、ディスレクシアが起こる仕組みなどを調べると、これらのことが思い当たった、という内容なので、その点お含みおきください。

始めに掲げた画像は、ディスレクシアの人の文字の見え方として、例に出されている画像です。これは私がひどく緊張状態にある時に、文を読むと出てくる症状です。文章を読もうと思うと、文字が浮き上がり、交錯して、読めなくなります。はっきりこの症状だった!と断言できるのは1回だけなのですが、それに近いことは思い返せば何度かあります。

この症状は、司法試験の「短答式」試験を受けている時に起こりました(2001年か2002年ころ。私は37,8歳だと思います。ちなみに法学部出身ではなく、ど素人でした。)
元々刑法の問題を読むのが苦手でした。刑法が苦手なのではなく、刑法の問題文が何度読んでもうまく理解できないのです。たとえば、令和3年の短答式刑法第10問に以下のような選択肢があります(法務省のHPから引用)。

「A.不法領得の意思として,権利者を排除して所有者として振る舞う意思及び何らかの用途に従って 利用・処分する意思が必要である。
B.不法領得の意思として,権利者を排除して所有者として振る舞う意思は必要であるが,何らかの 用途に従って利用・処分する意思は不要である。
C.不法領得の意思として,何らかの用途に従って利用・処分する意思は必要であるが,権利者を排 除して所有者として振る舞う意思は不要である。
D.不法領得の意思は不要である。」

似たような言葉が並んでいます。
私はこういう似た文字が並んでいる問題文を、何度学習しても、さっと読むことができません。注意深く丁寧に文字を四角で囲んだり記号を付したりして文章を図式化し、さらに自分で絵にしないと文章の内容が理解できないのです(刑法は分かっていても!)。しかも、その作業がものすごい集中力や注意力などの労力を必要として大変なのです。他の皆さんの感覚が私にはわからないのですが、多分こうであろうということで例えると、きれいに舗装された広い道路を歩きながら足元に落ちた落とし物を探しているのと、細い綱を今にも落ちそうに渡りながら落とし物を探しているのとの違いぐらいかな、と思います。(*)
そして本試験の時、前述のように文字が浮き上がってきてしまい、それに酔って気持ちまで悪くなってきました。何度も問題文を手で押さえようとしました。全然問題文が読み取れず、休み時間にトイレで泣きながら吐きました。
その時は、「緊張してるからだ」と思ったのですが、確かに緊張していたのでしょうが、文字がこんなふうには見えないですよね?(見えるのかしら)

留学のために受験していたtoeflの問題は、紙ではなく、モニター画像で行います。長文読解の取り掛かりでは、いつも文は浮いて交錯していました。この頃(50代です!)は少し知恵がついてきて、文章の出だし時のみモニターに鉛筆をあてて読んでいました(しんど。ちなみにtoeflは会場で用意された鉛筆と消しゴム以外持ち込み禁止でした。透明定規が欲しかった・・・)。

思い返すと、誰かの口述を「まとめる」のではなく、「そのまま書き取る」のもひどく苦手でした。大学で、自分の口述を一字一句間違い無くひたすらノートに書き取らせる、という授業をする先生が2名ほどいて(ひどいですよね〜)、これが、全然追いつかない。略字を発明したり色々工夫するのですが、どうしても書き取れない。周りに聞いてもそんな人はいません。いくら努力しても書き取れないので、本来は「楽勝」な授業なのですが、もう出席するだけ無駄なので、途中から全サボりしました。出席しても欠席してもやることは友人のノートをコピーするだけ、授業に出席してもひたすら苦しいだけで、何のメリットもない、という虚しい状態でした。

数字列も、今から思うと「絵」として捉えているようです。
たとえば「1234」と並んでいる数字に対し「これは小さい順に並んでいる」と意味づけをすれば間違えないのですが、見たままを写すと、こんな単純な文字列でも平気で「1243」と書きます。よって、数字を見ながら打つ電卓はものすごく苦手です。見て打つだけなのに、計算結果が毎回変わります。高校の時の家庭科の家計簿は、何時間電卓を打っても仕上げられませんでした。私にとってスーパーのレジの方達の動作(バーコード読み取りになる前)は神業にしか見えません。

S君、Mさんの症状も、たくさん挙げられますが、とりあえず今はディスレクシアの症状を網羅したいわけではないので、ここで症状の説明は終了いたします。ディスレクシア(っぽい)人の困難とは、例えばこんな感じです、ということです。
「自分に合った学習法」を考えるにおいて大事なのは、こうしたことがどうして起こるのか?というディスレクシアの「神経生物学的原因」と言われるところにあると考えています(次回以降)。

*私がこういう文章が人より苦手だと分かったのは、自分の学習塾で生徒に教えている時でした。私は皆が同じように混乱すると思って、10年間「混乱するよね?」と聞き続けてきたのですが、生徒の誰も私の感覚に同感しなかったのです。
*英語の強力な学習法の一つである「ディクテーション」は、私にとって地獄でした。日本語でも聞いたままを書き取れない人が、聞いた英語を書き取れるわけないですよね。それに気づかず、「英語はディクテーションだ!」と強く主張する人を信じ、何百時間も無駄にしたな、と今になって思います。ディスレクシアかどうかはわからなくても、「ディクテーションができない」という人が「bとdをよく間違える」と言った時は「ディクテーションはやらなくてもいいんじゃない?」と何気にアドバイスしちゃいたくなります(しちゃったりします)。

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