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自分のことなど

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私自身のことを書いています・・・
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記事一覧

多様性、どこから始まりどこへいく〜魂の叫びシリーズ〜

(いつも、なるべく正確であるとか、公平であるとか、冷静・論理的(私なりに)であることを意識してnoteを書いているのですが、時々、感情的な面も書こうかな、と思って”魂の叫びシリーズ”という言い訳をつけて書いてみることにしました) いつも、「同時」だの「継次」だの、固い言葉で書いているけれど、 この話を噛み砕いて周りの人にすると、 たいてい、ものすごくウケる。 笑ったり、そうそうそう!と言ったり、だったらこれもそうかな? なんて、話が止まらない。 血液型とか星座とか、そういう

2017年。アメリカ横断皆既日蝕。大学の授業は休み(52歳の田舎のおばさん留学記;番外編)

今朝、テレビのニュースを見ていたら、昨日はアメリカで皆既日蝕が見られたとかで、嬉しそうに空を見上げるアメリカ国民が映し出されていた。 前回は7年前の2017年。私はアメリカにいた。 今回は2024年。次回は2045年だそうだ。 21年後。私、生きてるかなぁ・・・。 そう考えると、2017年の皆既日蝕をアメリカで見たことも、結構貴重な経験に思えてきた。 ニュースでは、皆既日蝕による経済効果は1兆円弱である、としていた。 なるほどー! わかる気がする・・・。 2017年8月21

「学習支援」に興味を持ち始めた時期(自分のこと1)

私は、「(簡単にいうと→)”その人”は、どうやったら”勉強”ができるようになるか」をずーっと考えている。 最近では、「資格試験等、範囲と締切のある学習における、学習者本人の特性・環境・価値観に応じた学習法確立支援」に興味がある(というか、少しやっている)。   「ずっと考えている」というのがいつからか、というと、小学校2年生くらいからではないかと思う。   小2の頃、母と弟妹とお風呂に入っていた時のこと、 「まーみちゃんは、勉強も運動もできるよね。だから、それがうまくできない

noteは刺激が少ないので、楽に感じるので、選択。

自分は、なぜ、blogではなくnoteにしようと思うんだろうな、 と、note再開にあたって、”blogとnoteの違い”などをググってみたが、そこに書かれていることは、自分にとって特段noteのメリットを感じられるものではなかった。 ただ、「余計な修飾をしなくていいので、テキストに集中できる」という作成側の視点が紹介されていて、それは逆にいうと、「誰のnoteにも、余計な修飾がない」ということを意味するな、と思って、「ああ、そうか。画面が私にとって楽なんだ」と気づいた。

学習方法と認知処理傾向の関係について、死ぬまでにやりたいこと・・・実践知を積み重ねる・複数の人による実践知のプラットホームを作る

(写真は1年半前に、自分の実践について頭の中を整理したときの図) 徒歩圏内の地方大学院に入学して1カ月しないうちに衝撃を受けた。 私は、自分が興味関心を寄せている「認知処理傾向」(←当時はこの言葉も知らない)と「学習方法」の関係の研究というのは、どこかに先行研究がきっとあるに違いないと思っていた。自分はそれをなぞり、さらに足りないところを集中的に研究してみようと思っていたのだ。 が、 それを探しても探してもうまく見つけられなかった。 もしかしたら、外国にそれがあるかもしれ

noteの記事の整理をしたら落ち着いた〜

まだまだ修正したり写真を入れたりする予定ではあるけれど、 先ほど、noteをマガジンの形でコンテンツごとに仕分けをした。 なんだか気持ちがゆっくりしたー。 これによって、読んでくださる人が減るかもしれないけれど、 「自分を表す」一手段として、noteにもっと記録を書いていくことにした。 それが2023年暮れから2024年新年にかけて決意したことの一つ。 そして、何か自分を紹介しなくてはならない時には、「note読んでください」と言えるようにする。 古い記事の内容には「うー

このnoteは、「学習プロセスのコントロール」支援を中心に書いています

学びが楽しいとは、 ひとつに、知的好奇心をそそられること、 ひとつに、目標があるなら、それを達成すること、 そして、学びのプロセスを自分でコントロールして楽しむことがある、 と、私は思う。 自分で自分の学びのプロセスをコントロールするのは面白い。 学びのプロセスとは、つまり、学習方法だ。 学びのプロセスをコントロールするとは、 自分に合った学習方法を自分で作っていくということだ。 そして、それを日々、状況によって変えていくことだ。 ただ、この「学びのプロセスをコントロール

学習障害の子どもを育てる英語圏の「お母さん」と話をしたかった(最近少し叶った!with chatGPT)

見出し画像は、私が今書いている「留学記」で利用している奨学財団を見つける前、 「留学したいな〜」という「夢想の世界」に浮遊していたときに、 穴のあくほど見ていた大学のホームページである。 ディスレクシアに「異常に」関心のあった私は、「ディスレクシアに関する講義をもっと受けたいな〜(MOOCなどはもう受けていた)」と‥‥‥そういう「講義」が実在するのかどうかなどの判断をすっ飛ばして‥‥‥検索をかけ、ディスレクシアに関する内容を展開しているアメリカの大学を調べまくっていた。 デ

勝手にアンテナが立ちすぎるんだから、仕方ない

情報をとりにいくことを、「アンテナを立てる」という。 それは時々「アンテナを高く持ちましょう」と促されるものでもあるけれど、 勝手にアンテナが立っちゃって、勝手に情報とりまくってしまう人というのはいる(→自分)。情報が自分のものになるかというと、それほどなっていないんだけど、アンテナは感知しまくってしまう。 新しくとった情報というのは、大概「なるほどねー!」というものだ。 「確かにそれもある」「視点を変えるとそうくるか」というような、自分が既に持っていた知識や経験に付加価値

義足をつけることに、希望爆発

(人によってはセンシティブな内容です。う!となる方もいらっしゃるかもしれません。表題から予想される内容で、読むかどうかご判断ください・・・。) うちの伴侶は、左膝下義足である。 25年前、34歳頃に、事故でそうなった。 で、最近いろいろな事情があって、義足を作り直している(2年に1回くらい作り直すんですが)。 伴侶「今日義足屋でさ、足首が一方向に曲がるタイプの義足をつけてみてくれないか、って言われてさ、つけてみたんよ」 義足は普通、足首の形は固定されている。動かない。だ

自然と一緒に呼吸する & AIを使った技術に追いつく

(写真は、夏の間だけやっている農家の手伝いバイトの帰り道の写真。自転車で通っているので、ちょこちょこ写真を撮れる。この広い田んぼ&畑をあと3分漕ぐと高架高速道路の下へ。そこを抜けると、ちょっとした田舎町になります) 今朝、dalle2とか、midjourneyなどという、「こんなイラスト欲しいんだけど」と入力すると、AIがイラストを作成してくれるというソフトを知った。 私はゲームはやらないのだけど、discordのアカウントは成り行き上持っている。 ソフトの中身は基本英語(

50歳すぎてからの生き方に、過去はどう作用するか

(なんでしょうね、このイラスト。自分で描いて、よくわからないですwが、今日描きたかったことのイメージです・・・) ここのところ、自分の過去に圧倒され気味である。 noteに書いている50代の留学記のために資料を引っ張り出したり、参加している大学院公開講座のレポートのために、蓄積系の資料を引っ張り出したり、先日は娘が結婚式をあげたので、そのために過去の写真(デジタルになる前の写真)を引っ張り出したり。 そうした作業に伴って、特に探しているわけでない資料もドカンドカン出てくる

「相手と”合わせる”部分を多くする」←マイブーム

今出席している大学院の講義で、「人と意見を合わせる時、何を合わせているか?」という問いかけがあった。 私たちは、ざまざまなものを合わせていって、その先に「合意」がある、という話だ。 これは、私にとって目から鱗の話だった。 私は、他人に「気持ち」を合わせていくのは上手い方だと思う。丁寧に話を聞いて背景も聞き、状況を理解し、その人の気持ちに自分の気持ちを重ねて、理解していく。 なのに 「結果」を出さなければならない、多人数の話し合いの時は、一人で勝手に心の中で「結論」を考え、皆

ディスレクシアの特徴を活かしたワザ?!(自分の場合)

(上の写真はNHK科学文化部の2015年のTwitterから引用) 以前、私自身のディスレクシアチックな症状を書いたことがありましたが、 私が、「国語の長文読解」で使っていたワザは、もしかしたら私特有(やれる人限定)のものなのかもしれない、と思って書いてみます。 ディスレクシアの症状の一つとして、文字が浮き上がって見える、というのがあります。 それがふわふわと漂い、交錯して、読めなくなってしまい、 それが「障害」となるわけです。 ただ、私は、この文字が浮き上がる現象を、