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第2話 孫子の兵法

エントリーしたスロープの周辺には、遠浅のシャローフラットが広がっているらしい。
エサを食べに来ている小魚が来ているかもしれないと思って沖の方にポジションを取り、岸際めがけてマスタングを遠投する。
マスタングはピチャピチャと可愛い音を立てながら泳いでくる。
これが釣れる動きなんだ。
僕は動きに魅入られワクワクしてきた。早くバイトしてくれ!

そうしてマスタングを根気よく投げ続けること30分、一匹もバイトが無い。
バイトはおろかチェイスも一切、無い。
予想外の出来事だ。魔法のルアー、マスタングじゃなかったの?
そもそも朝マズメってメチャクチャ釣れるんじゃないの?
そんな雑念が入った瞬間、手元がくるってバックラッシュをしてしまった。
平沢さんはバックシートで一投もせず僕を見ている。
だんだん怒りが込み上げてきた。
なんだよマスタング、魔法のように釣れるルアーじゃなかったのか。
いや、本当はフリマサイトで発売している輸入された海賊版で、パッケージだけオリジナルなんじゃないのか。
バックシートからそうやって見られたら集中できないじゃないか。
魚が釣れないのは、僕のせいじゃないぞ。
くそっ、こんなみじめな思いをするんだったら、ボートに乗るんじゃなかった。
いや、マスタングなんて買うんじゃなかった。
こんな山奥のダムに来るんじゃなかった。
バス釣りなんてするんじゃなかった。

「どうだい雪平くん。この状況で何ができるかい?」

平沢さんは僕の焦りなんて知ったこっちゃないという感じで穏やかに話しかけてきた。

「え?何ができる?どういうことですか?」
平沢さんは穏やかに話し続ける。
サングラスで表情は見えないが、心なしか真剣さが伝わってきた。
僕の怒りが自然に落ち着いてきたような気がしてきた。

「雪平くんには選択肢がある。そのマスタングを投げ続けるのか、それ以外だ。」

マスタングで50アップを釣りに来たのに、それ以外の選択肢なんてあるもんか。
だって魔法のルアーだ。
諦めなければ絶対に魚は釣れる。
ネバーギブアップだ。
諦めが悪いのは僕の長所だから。

「雪平君はそのルアーを投げるのが目的なのかい?それとも、バスを釣るのが目的なのかい?」

目的?
マスタングで50アップを釣りたいんですよ。と言おうとして、少し戸惑った。
なんだか、痛いことを突かれた気がした。

「僕、何か変なことをしていますか?」

「君はそのルアーで魚を釣りたいと考えているようだが、それはどうしてなんだろう、と思ってね。
ルアーの選択肢は他にいくらでもある。
そしてこの状況でなら、そのマスタング以上に釣れるルアーの可能性もあるのに、だ。」

僕は黙って平沢さんの話を聞いていた。そして、平沢さんも黙った。
僕の返事を待っているのだろう。ボートの上は驚くほど静かだ。
「じゃ、じゃあ。どんなルアーだと釣れるんですか?」
僕は沈黙に耐えられず質問した。
マスタングの他にも釣れるルアーがあるのだろうか。

「そうだな。こいつはどうだろう?」
平沢さんはスピナーベイトが結んであるタックルを手に取り、バンクに向かってキャストを始める。
スピナーベイトだって?
今どきスピナーベイトみたいな訳の分からないルアーが釣れるわけないじゃないか。
僕は内心笑ってしまった。
何を考えてスピナーベイトを選んだのか知らないけど、まあ見てみよう。
平沢さんはシャローフラットの岸すれすれ、途中にうっすらと見える沈んだ倒木など、次々とキャストをして巻き、ピックアップしてはキャストを繰り返す。
バンク際を数投チェックした後、次はやや沖に投げて5回ほど巻いたとき、ロッドが絞り込まれた。

「来たよ」
平沢さんは静かに言った。
バスを水面からジャンプさせないようロッドティップを下げ、何事もなかったかのようにバスを抜き上げた。
平沢さんはルアーを素早く外すと手のひらをあてがい、だいたいの大きさを把握していた。そしてスマートフォンで撮影し、丁寧にリリース。
一連の動作は実に鮮やかだった。

「40センチ弱ぐらいだったね。」

僕は唖然としていた。平沢さんがキャストを始めてから、ものの5分程度でバスをキャッチしたからだ。
きっと今日はスピナーベイトが釣れる日だったのか。
それとも、チューニングされまくった魔法のスピナーベイトなんだろうか。

「ど、どんなスピナーベイトだったんですか?」

平沢さんはスピナーベイトをラインから外して渡してくれた。
見せてくれたのは、マージナルゲインからリリースされているロングセラーのスピナーベイト「ターミネーター」だった。
3/8ozのダブルウィロー。カラーはスモークガンメタル。
じっくりと見るが、別にチューニングしている様子はない。
強いて言えば、ラバーがところどころ短くなったりヘッドに傷がついて塗装が剥げたりしているぐらいだ。
きっと使い込んだスピナーベイトなんだろう。
平沢さんは別のスピナーベイトに結び変え、再びキャストを始める。
もうバンク際に投げることはせず、少し沖ばかりをショートキャストで狙っていった。
「雪平君、もう少し沖に出てもらえないかな?」
僕はマスタングを投げることもなく、言われるがままゆっくりボートを岸から離した。
一言お礼を言った平沢さんは、スピナーベイトを何もない沖へと静かに送り込んだ。
巻かずに張らず緩めずのラインスラックを作っている。
数秒後にラインスラックがフワッとたるむ。
その瞬間、平沢さんはロッドをあおった。
先ほどよりもロッドが絞り込まれている。平沢さんは慌てず魚をいなした。

「これはいい魚だね。抜けないな。」

ハンドランディングして上がってきたのは、お腹がでっぷりと膨らんだナイスサイズだった。
平沢さんは魚をメジャーに当て、スケールで重さを量った。
2枚ほど撮影し丁寧にリリースしていた。

「今のは48センチ、1700グラムだったよ。スピナーベイトの魚だ。」

手にしていたルアーは、同じターミネーターでも5/16ozのダブルコロラドだった。
もう何が何だか分からなくなった。
スピナーベイトは釣れない。
そう思い込んでいた僕は、呆気にとられて立ち尽くしていた。
そんな僕を見て核心を得たのだろう、平沢さんは僕の核心を突いてきた。

「雪平くんは、『魔法のルアー』を探そうとしていないかい?」

「え、探しちゃいけないんですか?」

「…よく考えてみてくれ。もしもこの世に魔法のルアーがあればどうだろう。
そのルアーばかりが売れ他のルアーは売れなくなり、世の中のルアーはもっと絞られ単純になる。
だが実際はどうだい?実に多くのルアーが生み出されている。
もちろん優れた動きをするルアーは存在する。
しかしそれはあくまで使用者との相性やフィールドの状況に合致しているという範囲での話だと僕は思うんだ。
どんなルアーにも魚を釣る能力は備わっている。
しかし、それを引き出してルアーに仕事をさせられるかどうかは、自分自身にかかっているんだよ。」

なるほど、たしかに一理ある。
もしマスタングが魔法のルアーだったなら、マージナルゲイン社はそれだけを作って売ればいい。
他のルアーの開発や製作なんかしなければいいし、放っておいても売れるんだからマーケティングだって楽だ。
しかし実際はどうだろう。
マージナルゲイン社からはマスタングやターミネーター以外にもたくさんルアーがリリースされている。
ということは、いつ、どこでどんなルアーを選べばいいのか。
なぜそのルアーを選ぶのか、その思考が魚を釣るうえで大切ってことなのか。

「じゃあそもそも、何を考えてどうやってルアーを選んでいけばいいんですか?」

僕は平沢さんに質問した。
平沢さんはフフフと笑った。

「だからスピナーベイトなのさ。あくまで僕の考え方だけどね。雪平君、スピナーベイトの利点って知ってるかい?」

今更スピナーベイト?と思ったが、実際に平沢さんはものの15分で2本釣っているんだ。
きっと理由がある。
僕はフラッシングのことやスナッグレスなサーチベイトことを喋った。
そして、僕は生まれてこの方スピナーベイトで釣ってないことも付け加えた。

「いいね。だいたいはその通りだと思う。あと一つ付け加えるなら、『やる気のある魚が釣れ、やる気のない魚は釣れない』ということだ。」

それは有名な話だ。
しかしそれが何の意味を持つんだろう。

「やる気のある魚が釣れる、つまりやる気のある魚がどこにいるのか、その傾向が分かる。ということだ。
バスフィッシングは場所選びが大切だ。
そうやって多くの情報を短時間に集められるスピナーベイトは、掛け値なしに優秀なサーチベイトなんだよ。」

なるほど。
魚を釣ることが目的ではなく、やる気のある魚がどこにいるかを知ることが大切なのか。
それなら、やる気のある魚が多い場所で釣りをすれば手っ取り早く魚が釣れるかもしれない。
改めて考えると当たり前で効率的なことなんだけど、平沢さんは「情報を集める」ことを重要視していた。
黙っている僕に、平沢さんはさらにしゃべり続ける。

「そうだなぁ。例えば、孫子の兵法を読んだことはあるかい?」

「敵を知り己を知れば百戦危うからず。ってやつですね。」

僕は答えたが、実はそれほど詳しくない。
先ほどのフレーズぐらいだ。
ただ、世の中の名だたる経営者はもちろん、全世界で読み継がれ、大昔から語り継がれてきた名著であることは知っている。

「バスフィッシングにも、応用できることは多いよ。
情報を集めることの大切さも、もちろんそうだ。」

僕はキョトンとした。
経営者が読むのは分かるけど、たかだかバスフィッシングでしょ。
ちょっと大げさじゃない?と思ったが、もう平沢さんの言葉を信じるしかないと思っていた。
平沢さんの話を黙って聞くことにした。

「兵法について詳しく喋るのはやめておく。釣りの後にでも検索してくれ。兵法の中でもバスフィッシングにも当てはまる考え方をいくつか紹介しよう。」

昔の善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して以って敵の勝つべきを待つ。

バスがルアーにバイトするかどうかはバスが決めることだ。
だから僕たちアングラーは、フックポイントが鋭いかサビていないか、ラインにキンクは無いか、タックルバランスは適切か、バラさないための準備はできるはずだ。
そのうえで、バスを釣るために何ができるかを考えるんだ。

衆寡の用を識る者は勝つ。

人海戦術と少数精鋭の使い分けを心がけていると勝利しやすくなる。
巻物でバンクを細かく刻むことも、一等地に一撃でキャストを決めること、どちらも使い分けることで魚を釣る確率がぐっと高まる。

兵とは詭道なり。

バスフィッシングは、バスに間違いをおかさせることでバイトを引き出すと考える。ルールの範囲内でどんな駆け引きをするかも重要なテクニックだ。
正々堂々と戦うことも大切だが、駆け引きのために知恵を絞ることも忘れてはいけない。
バスに間違いをおかさせる状況を作るようにしよう。

智者の慮は、必ず利害に雑う。

魚が釣れない状況は、ここに魚がいないという判断材料になる。
一つの事実を両面から見ることは大切だ。
どう解釈するか、解釈次第では釣れないことも有益な情報になる。
釣れなかったことを前向きにとらえ、有効なアプローチを絞り込んでいくことができる。

彼れを知りて己を知れば、百戦して危うからず。

相手の力を知って自分の力を知っていれば、100回戦っても大負けすることは無い。
相手というのは湖の状況や魚の習性でもあるし、自分が置かれている状況ともいえる。
情報を集めたうえで自分ができることを正しく理解しておこう。

明主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出ずる所以の者は、先知なり。

いざ水辺に立った時、相手がどんな状態でどんな場所なのか、より多くの情報が手元にあれば具体的に作戦が立つ。
情報をしっかり活用して釣りを有利に運ぶこと。

善く戦う者は、人を致すも人に致されず。

色々な情報を得ること、人の意見を取り入れるのは大切だが、それをどう扱って活用するかはその人が決めることだ。
今の時代は特に雑誌やSNS情報にあふれているから、欲しい情報と不必要な情報を考え、取捨選択することも必要だ。
自分が何をしたいかを決めるのは、結局のところ自分自身だ。

兵は拙速を聞くも未だ功の久しきをみざるなり。

丁寧に時間をかけて完璧な作戦を立てるよりも、雑だが素早く行動することが勝利に繋がることもある。
情報が不十分なうちに丁寧なスローダウンゲームをすることは、このセオリーに反すると言える。

僕は聞き入っていた。つまりスピナーベイトは、バンクを細かく刻む「衆」のアプローチができて、釣れない情報も視点を変えて捉え、ざっくり大まかだけど手早く情報収集ができる。
だから優秀なのか。
平沢さんはバンクをスピナーベイトで流し、バンク際にバスがいないと判断した。
そして沖にキャストしてバスを釣った。
しかしなぜ何もない沖を釣ったんだろう?
もしかして、沖に何かあるのだろうか。
 
「雪平君は知らないだろうが、僕が2匹釣ったのは、シャローフラットの沖にある石垣状のブレイクだ。
そして今日、雨が降っていないだろう。だからこのダムは減水しているんだ。
そんな減水の時に、バスは沖に出る習性があるんだよ。
ブレイクラインやアウトサイドの岩盤にサスペンドすることが多い。
ましてや6月中旬、アフターの魚やアフターから回復した魚も様々だ。
じゃあ、ここからは雪平君に釣ってもらおう。」

なんだか、釣れるイメージが湧いてきた。
平沢さんの言葉には勇気があった。
僕を否定することもなく、背中を押してくれた。
僕はマスタングを結んだタックルを置き、6フィート4インチのスピニングに、マージナルゲイン社のパーティークローラー4.8インチのノーシンカーワッキーを結んだ。
じっと湖面を見るとうっすらボトムの色が変わる場所を見つけた。
あれがブレイクだろう。
その線をたどると、一か所だけ崩れたような部分が見えた。
僕はそこにキャストをした。
ルアーがポトリと落ち、クネクネとフォールしていく。
ラインも沈んでいく。
数秒後、ラインがツツッと不規則に動く。
僕はスイープ気味にロッドをあおった。
手元に伝わる感触は、それほど強くはなかった。
そのまま船上に抜き上げたのは30センチ弱のバスだった。
サイズは小さくても関係なかった。
よく情報を集めて釣るとは、こういうことなんだろう。

後ろから拍手が聞こえた。

「雪平君、いいね。見事だ。あそこだけブレイクが崩れていてバスの通り道になりやすいんだ。よく見つけたね。」

「いや、じっと見てたらそこだけ変化してたから…」

僕は謙遜したが、延々とパーティークローラーを投げていては、この魚は釣れなかっただろう。
このダムが減水していてバスが沖を泳いでいること、シャローフラットの沖にブレイクがあったこと、一か所だけブレイクがこぼれていたこと、平沢さんの釣果も併せて色々な情報が集まった結果だった。
僕はもう、マスタングで釣りたいとは思っていなかった。

「さて、沖のブレイクに魚がいることは分かった。ライトリグのフォールではサイズが選べないね。
スピナーベイトでも釣れるが、横に引っ張るよりもスポットから離さない方がいい。
もしかしたら、表層付近で動き続けるルアーを一か所で留めておいた方が、クオリティのいい魚が反応するのかもしれないね。
そんなルアーは持っているかい?」

平沢さんはニコニコしている。
表層付近をスローに泳ぎ続けるルアーか。
そんなルアーはあったっけ?

…あ、そうか。
僕は、再びマスタングを選んだ。

そのままエレキを踏み、ブレイクの延長線をたどっていく。
特に大した変化は見つからなかったが、最も上流側には岬が張り出していた。
おそらく、シャローフラットの終わりと岬が絡んだ場所だ。
僕はエレキを止め、慣性で船を進める。
岬の先端にマスタングをキャストし、ラインスラックを作って、できるだけスローに泳がせた。
もわもわとマスタングがアクションしている。浮き上がってこい!僕はそう念じたが、何も浮き上がってこなかった。

一度ピックアップする。
次はもう少し沖側の、岬が本湖に面した場所にマスタングをキャストした。
着水した瞬間、真っ黒い影がびっくりするような速さで浮いてきた。
バスだ。マスタングの真横にピッタリと浮いている。
こ、これは巻いていいのか?

「巻いて」

平沢さんのひと言で僕はマスタングを巻き始める。
その瞬間、大きな水柱を立ててバスがマスタングに襲いかかった。
ロッドが経験したことないほど絞り込まれる。

「気を付けて。そこには立木があるから。」
平沢さんはバックシートから助言をしてくれた。

僕は無我夢中でラインを巻き取りバスを浮かせた。
ファイトのことは覚えていなかった。
平沢さんがバックシートからネットを持ってきてくれ、ランディングを手伝ってくれた。

平沢さんに手伝ってもらい、僕が釣ったのは49センチ1820グラムという魚だった。
狙っていた50アップでは無かったが、この魚が僕にとってどれほど価値のある魚なのか分かってもらえるだろうか?

間違いなく僕は
この魚のことを一生忘れないと思う。


さて、これはマスタングだから釣れた魚だろうか?
以前の僕だったなら

「マスタング、マジ神!」

と思っていただろう。でも今は違う。
湖の増減水による魚の習性を知ったこと。
スピナーベイトやノーシンカーにレギュラーサイズが反応したこと。
地形の特徴を見つけて丁寧に釣ったこと。

そうやって集めた情報が結んだ、努力の結晶だ。

平沢さんに撮影してもらい、リリースし、平沢さんにお礼を伝えた。

「フフフ。喜んでもらえて嬉しいよ。また遊びに来るといい。」
「ありがとうございます、また来ます。」

平沢さんは明日のレンタルボートの準備をしたいそうで、これでこの日の釣りは終わることとなった。
ほんの少しだけの時間だったが、僕は今までの6年間以上の学びをこの数時間で得ることができた気がした。

また来たい。
このダムに来て、また魚を釣りたい。
あの人からバスフィッシングを学びたい。
また、あんな魚と出会いたい。

家路を急ぐ車内で、僕はずっと
魚の感触を反芻していた。

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