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誰かのものであり、自分のものでもある本と、それにまつわるいくつかの話

いい香りを挟んだ古本


『違国日記』という漫画を読んでいる。

評判になっているのは聞いていたし、友人でありフラスコ飯店の仲間でもあるくどうさんにも勧められていたので、読みたいなと思いつつしばらく時間が経ってしまっていた。そんなときに立ち寄ったブックオフに4巻まで売られていたので迷わずに購入した。一気に読んだ。

すごい漫画だと思う。まだそのすごさをうまく言葉にできない気がする。ひとつのセリフに、ひとつのコマに、ひとつの表情に、ひとつの目に、「ふぅ〜〜〜〜」と細く長く息を吐きながら唸りながら、床に吸い込まれていく。他人と関係を結ぶことについて、思わぬところから風穴を開けられるような気持ちになる。

作品のすばらしさについてはまたいずれ言葉にしたいと思っているが、今日ここで話したいのは作品の内側の話ではなく、作品の外側の話だ。古本で買った『違国日記』から、とてもいい匂いがしたのだ。

古本には古本の匂いがある。多くの場合はじめっとしたカビ臭さであり、生活臭の煮凝りのような匂いである。別に良い匂いではない。というか臭い。ある程度顔から離して読むし、その匂いを深く吸い込むことはしない。でもそれが絶対にイヤだというわけでもなく、ちょっと臭くて、他の誰かの持ち物であったことがムンムンに現れているのも古本の持ち味だと思っている。何より安く読ませてもらっているので文句など言えない。

古本とはそういうものだ。なのに『違国日記』からは華やかな香りが漂ってきたのだ。

こんなふうに以前の持ち主が現れたのは初めてだった。そもそも新しい漫画なので何人もの手を渡ってきたわけでもなさそうで、古本だけどきれいだった。4巻買って、そのうち1巻と2巻から同じ匂いがした。おそらくその人は2巻まで買って読んで、売ったのだろう。他の巻だけ先に売れてしまったのかもしれないけれど。

いわゆる古本の匂いではなかったからか、妙にそのひとりの誰かのことを想像してしまう。

その人はどうやってこの作品を知り、何を求めて購読し、何が得られなくて手放したのだろう。その人が求めなかった何かを僕はこの作品から得たのかもしれない。その人が手放した何かを僕は求めていたことだけは、本という形に表れている。そのことを華やかな匂いが伝える。

その人にももっとこの作品を読んでいて欲しかったな、なんてお門違いなことを思ったりする。


「曝書」という言葉を知った馬鹿


本の匂いについて考えていて、ふと「曝書」という言葉を思い出した。というより「曝書」という言葉を知ったときのことを思い出した。

あれは小学5、6年生くらいのことだったと思う。僕は委員の集まりに参加していて、その漢字を初めて目にしたのだ。各委員の夏休み中の仕事を確認する、みたいな内容の会議で、図書委員の仕事として「曝書」という二文字だけが紙に書かれていたのだ。

「曝」という字を知らなかったので、僕は「あー『爆』と間違えて書いてるんやな〜」と偉そうに考えていた。そして「図書委員の仕事、『爆書』って! めちゃくちゃ本読むってこと? いやそれ別に図書委員の仕事ちゃうやん」とさえ思っていた。無知とは愚かなり。無知の知以前の人間だった。僕の人生にはまだソクラテスのおっちゃんが現れていなかったようだ。

そうこうしているうちに正しい「曝書」の意味が明らかとなり、そのめちゃくちゃ図書委員っぽい仕事内容に感心した。曝書とは、本を開いて風に当てたり、日光にさらしたりして虫干しをする作業だ。図書室の本がカビ臭くならないように、図書委員たちは働いてくれていたのだ。すごい! ……いやまず図書委員に謝れ。図書委員のことを二重で馬鹿にした馬鹿よ、貴方は。

しかしそれ以来「曝書」という言葉を使ったことはない。図書委員をやったことがないからだろうか。今年の夏は部屋の本を曝書しようかな。きっと本たちが僕臭くなっているのだろうし。


古本に挟まった小さな三日月


僕は湯船に浸かるのが好きだ。一人暮らしを始めてからも小さな浴槽に湯を溜めて、膝を曲げて浸かっている。入浴中は本を読む。どれくらいの割合の人がお風呂に入りながら読書するのかわからないが、たまに驚かれることもあって逆に驚く。

その日も膝のうえで古本の文庫を読んでいた。ページをめくると、本の谷間から黄色い月が現れ、はらりと落ち、水面に浮かんだ。取り上げてタオルで月を拭いた。それは黄色い画用紙が歪な三日月のような形に切り取られたものだった。おそらくは文庫の前の持ち主から栞の役目を仰せつかった三日月だったのだろう。あるいはそうではないかもしれないが、そうであったらいいなと思った。

誰かが「今日はここまで」と月を挟み、同じ場面まで辿りついた僕の浴室にその月が現れる。

その日はそのページで読むのをやめ、月を挟んで風呂を出た。そのままその月を使い続けて、僕はその本を最後まで読んだ。月が現れたこと、月を使って最後まで読んだことはよく覚えているけれど、何の本だったか定かではない。いしいしんじの『プラネタリウムのふたご』だったような気もするけど、月は挟まっていなかった。何の本だったのか、月はどこへ行ったのか。

読み終わったとき、月をその本の適当な箇所に挟んだのは覚えている。……あ、前の持ち主も、そういうこと?

大体のことはそれほどロマンチックではない。それでもあの日膝の上に現れた月はとても鮮やかだった。


文と写真・安尾日向

フラスコ飯店での安尾日向の記事はこちら

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