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「科学哲学講義」書評 - 科学とはどう言う営みか?


科学と擬似科学の区別


科学の活動は、ある対象についての思考、批判、議論の積み重ねを前提とする。科学は、仮説や理論を提出し、それらを実験や観察によって検証するプロセスを経て進歩する。例えば、物理学においては、アインシュタインの相対性理論が提案された際、激しい議論と検証が行われた。実験結果としての光の曲がりなど、多くの具体例がこの理論の正しさを示している。このように、科学では理論や仮説が絶えず試され、批判を通じて発展する。一方、擬似科学はこのような厳格な検証プロセスを欠き、しばしば反証可能性を持たない主張がなされる。例えば、占星術は個人の運勢を星の位置で説明するが、これは科学的な方法で検証することが難しい。このような主張は、具体的な証拠や実験方法が提供されないため、科学的な議論の対象となりにくい。
筆者は、擬似科学と科学の間に一般的に思われているような明確な線引きは存在しないと指摘する。確かに、科学の歴史を振り返ると、かつては科学とされていた理論が後に否定された例もある。例としては、かつて広く信じられていた「エーテル」の存在が、後の実験により否定されたことが挙げられる。しかし、重要なのは、科学が自らを対象に議論できるという点である。この自己批判的な態度こそが、科学を擬似科学と峻別する要素と言える。科学の進化は、誤りを認め、新たな証拠に基づいて理論を更新する過程にある。

論文の役割とその批判


現代のアカデミアでは、論文の投稿と掲載が重要視される。これは、新たな知見の共有という科学の基本的な目的に沿った行為である。論文は、研究結果を同僚に提示し、広く公開することで、その正確性や有効性を評価する機会を提供する。しかし、このシステム自体にも批判が存在する。例えば、一部の論文では、研究の再現性が低い、または結果が誇張されていることが問題となっている。例えば、Nature誌やScience誌でも再現実験における再現率は三割であったという指摘がある。また、雑誌掲載料が数十万と高額化していることもあり、学術活動が一種の商業主義化しているのではないかと捉えかねない動きもある。これに対して、オープンアクセスの動きや研究の透明性を高める取り組みなどが提案されている。科学の進歩には、このような論文発表のシステム自体への批判的な視点も不可欠である。論文の質を保証するための厳格なピアレビューシステムや、研究データの公開を促進する政策が、科学コミュニティ内で議論されている。

科学的思考と大学院生活

私自身、情報系の大学院生として、科学の営み自体への批判や議論を身近に感じることは少ない。例えば、研究の方向性や方法論については議論されることがあるが、科学の根本的な仕組みや哲学についての議論は希である。これは問題であると感じている。科学の進歩は、論理的思考と抽象的思考を基盤としており、これらの能力は科学自体への批判や議論を通じて鍛えられる。科学の本質を深く理解し、より良い研究を行うためには、科学そのものに対する批判的な視点が必要である。例えば、データの解釈や実験方法の選択において、既存の枠組みに挑戦することが求められる。また、科学的知識の社会的影響についても、より深い理解が必要である。

大学教育と科学哲学


現在の大学教育では、専門性の深化や早期の就職活動が重視されているが、これによって広範な教養の習得がおろそかになる傾向がある。例えば、工学系の学生が文系科目を避けることで、彼らの思考が偏る可能性がある。科学哲学や一般教養課程は、論理的思考や抽象的思考を養う上で重要である。エウクレイデスが言うように、「学問に王道はない」のだ。真の実力をつけるためには、専門領域だけでなく、哲学などの教養課程における学問も重要である。科学と人文学の交差は、多角的な思考を促進し、より包括的な世界観を構築するのに役立つ。また、大学教育における多様性とバランスの重要性は、総合的な知識と批判的思考能力の育成に寄与する。そのためにも、新自由主義的教育システムの是正と、より包括的な教育アプローチを大学教育にて取る必要があると私は考える。


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