臣と民の魔合体 「臣民」の言説史
はじめに
明治憲法では日本国民は「臣民」とされ、明治天皇は教育勅語で日本人に親しく「我が臣民」と呼びかけた。ところで、「臣民」とは、奇妙な言葉ではないか。本来、違うものであるはずの「臣」と「民」、いわば家「臣」と「民」衆を一つに合体させた熟語だからだ。しかし、この独特な言葉は、旧憲法にも書かれれば、全国民が心に刻み込むべき道徳たる教育勅語にも記され、日本人の間に浸透した。第二次世界大戦敗戦後の紆余曲折を経て、「臣民」という言葉は法律用語からも道徳教育からも駆逐されたが、左派が右派を揶揄する際に、「臣民根性」「プロ臣民」などという言葉が使われる程度には、現代にも生き残っている。
本稿では、「臣民」という言葉の言説史を、「臣」と「民」とをどう関連付けたかの観点から辿ってゆく。近代日本最大のカリスマ・明治天皇が渙発した憲法や勅語に出てくる近代概念「臣民」を、近代日本の知識人たちはどう解釈し、説明したのか。「臣民」はあくまで「臣」+「民」だと言う者もいれば、「臣≠民」ではない「臣民」の存在こそが日本の日本たるゆえんだと大きな意義づけをする者もいる。ますは、近代日本が生んだ新概念「臣民」についての法学者による丁寧な説明を確認し、続けて各論者の議論をいくつか紹介していきたい。
1、「臣民」とは何か 穂積陳重による懇切丁寧な説明
「臣民」という言葉の何たるかを知りたければ、法学者の穂積陳重(1855~1926年)の著書『法窓夜話 続』(岩波書店、1936年。後に文庫化)を読むのが一番である。
穂積によると、「臣民」は、subjectやUntertan訳語として憲法制定時に新たに作られた言葉であるという(なお、「臣」+「民」とは区別される「臣民」という熟語は1889年の憲法発布以前、1882年の軍人勅諭にも表れていれば明治初期の翻訳書や文献にも現れてはいるが、それは措く)。
続けて穂積は、この「臣民」という言葉に漢学者が文句をつけてきたことを語る。曰く、「臣」は君に仕える「官吏」、「民」は「役人に非ざる一般衆庶」であって、「臣と民は本来別物」である、と。穂積もまた、「臣と民は本来別物」であるという主張を認める。
このように穂積は「臣」と「民」は別物であることを、「統治権」「治者」「被治者」といった言葉を用いて説明した。続けて、穂積は「臣民」という熟語が中国では「臣」+「民」の意味で用いられてきた古典上の用例を示した後、「しかしながら他方、「臣」の字を広く一般人民の義に用いた例もあるし、また「民」の字を官吏を含むものとして使った例も少なくない」(57頁)と述べて、「臣」を「臣」+「民」の、「民」を「臣」+「民」の意味で使った古典上の用例も紹介する。そして、「臣」の文字は拝伏の形状を現した象形文字であって「民」に通じること、「民」「人民」「民人」を憲法で用いれば「庶民」だけを指すという誤解を生む恐れがあるとしたうえで、次のように結論づける。
つまり、「臣民」は、「新事物新思想」――輸入概念「主権」に服する人々――を言い表すために必要な造語だったというのである。たとえ、「臣」と「民」が「本来は」別物であっても、「臣民」は「新事物新思想」が要求した言葉なのだ。
……と書けば格好がつくのだが、要はsubjectの便利な訳語が欲しかっただけである。それがたまたま「臣民」になったのであるが、そこにさらなる意味付けをしてゆく論者が現れる。「新事物新思想」といっても、所詮は西洋の「旧思想」の訳語に過ぎない「臣民」に、後世の論者は特殊日本的な意味づけを行って「新思想」を作ってゆくのである。
2、「臣民」はあくまで「臣」+「民」 漢学的発想
「臣民」は、教育勅語にも書かれたために、知識人は勅語の解説を行うにあたって、「臣民」の解説も行わねばならなくなった。教育勅語の解説は、「臣民」論の主戦場になったと言っても過言ではない。2節、3節で紹介する言説は、教育勅語の解説に現れる。
明治憲法の創作者たちは意図的に「臣民」概念を創出したが、それをまた「臣」+「民」に分解する者もいた。漢学に馴染んだ「旧思想」の者たちである。1853年生まれの大久保芳太郎は、「臣民」は分けて理解すべきだと主張する。
ここでは、「臣」と「民」の分け方には、官吏か否かと、華族・士族か平民かという二つの分け方が提示されている。
また、佐伯俊二(山形県士族で漢文科・修身科などの中学校教諭を歴任)は、湯原元一『教育聖諭教本』(金港堂、1899年)で「臣民とは、俗に言ふ「ケライ」にて、日本国民のことなり」(2頁)と解説されていることについて、「教育聖諭教本の批評 教育聖諭教本を批評して著者湯原元一君に贈る書」(『教育実験界』第六巻下 第七号 明治31年1月7日)で次のように述べている。
佐伯は、「臣民」=「ケライ」(要は「臣」)とだけ説明するのは言葉足らずで、「ケライ」(官職ある者)+「タミ」(官職なき者)と説明した方がいいのでは、と意見を述べている。
大久保も佐伯も、「臣民」は「臣」と「民」に分けて理解するのが妥当と見なしていると言える。
3、「王臣」としての「臣民」 「臣」兼「民」
漢学の発想に馴染んだ者が「臣」と「民」を分けて考えるのはある意味当然かもしれないが、穂積陳重も述べているが如く、「臣」を「民」を含めた意味で使っている古典もある。そこに突いて、「臣」と「民」は本来別であっても、「臣民」概念の有効性を主張する論者もいる。
東洋史学者の那珂通世(1851~1908年)と秋山四郎の共著『教育勅語衍義』(共益商社、1891年)は、このように主張する。
曰く、中国では、君主に仕えて忠節を尽くす者が「臣」で、租税を納めるだけで君主に忠節を尽くす義務がない者が「民」である。それは、中国では頻繁に別の王朝が興亡して民に臨み、君と臣の間に君臣の契りがないからである。しかし、日本では違う。日本人は「全国の人民、皆一種の民族」にして、皇族や群臣の末裔であるため(帰化民も「我が民俗に化せられて、世々忠節を尽したれば」)、「四千万の兄弟姉妹」で「皇室の世臣」でない者はいない。
このように、中国では「臣」と「民」が別々でも、日本では一致すると述べる。ここで言及される「率土の濱も」云々は、漢籍『詩経』の有名な詩句「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」を指す。ここでの「王臣」の「臣」は「広く一般人民を指したもの」であることは穂積も指摘する(前掲書44頁)ところであるが、那珂・秋山は、「王臣」=「一般人民」というのは中国では有名無実でも、日本には名実ともに備わっていると主張した。国文学者・神道家の今泉定介(定助。1863~1944年)もまた『教育勅語衍義』(普及舎、1891年)でも、那珂・秋山と重なる主張を行っている(なお、今泉は忠孝一致論も用いて「臣」「民」一致論を補強しているが、論点が発散するため、それは措く)。
ここでは、穂積においてはsubjectの訳語として便宜的に捉えられた「臣民」が、日本では「臣」と「民」が歴史的に一致してきたとして実体的に捉えられ、解釈されている。古くから日本で受容され発展してきた『詩経』に基づく王土王民の思想が、近代においては「臣」「民」一致の思想(「臣」兼「民」=「臣民」)として再解釈されているのも注目される。
彼らの解釈は、その後、ある程度踏襲され普及しているようである。その例として、以下の2つを上げよう。
4、「臣民」は「民」になるな、「臣」であれ 西晋一郎の場合
周知の通り、昭和には天皇を否定する思想や「国体」に反するとされる思想への弾圧と思想善導の施策が強化され、戦争が始まるや、「臣民」には戦争への全面協力が求められた。内憂外患に危機感を強める日本主義的知識人の中には、「臣民」論を進化させ、新たな論点を取り込む者も現れる。ここでは、倫理学者の西晋一郎(1873~1943年)晩年の論考「忠孝の説」の議論を取り上げよう。
西は「臣」と「民」の違いを、君主の「愛民の治教」の恩恵を受けていることを自覚しているか否かに求める。彼によれば、農工商でも学者でも、自分は自分の職業で食べていると豪語する者は「天子愛民の治教に生きながら、其の生きる所以を知らぬ者で、これを民とするが、御民であると自覚しない者」(146頁)であり、「民」だと言う。では、「臣」とは何か。
西によると、「臣」とは、自分が君の愛を蒙る「御民」であることを自覚し、「君の心」を我が心とし、「君に忠なる心」を持ち、自分の「分」が君の助けになると自覚したうえで「分」(職業と解釈してよいだろう)に励む者だという。「臣」と「民」とを分かつ伝統的な漢学的解釈、「官吏であるか否か」は、ここでは問題とされていない。
彼は「臣」「民」の定義にあたって、『春秋公羊伝』を援用しつつも、そこに「養われている」ことへの自覚の有無を加えて独自の議論を展開し、さらには「我が国体では民にして臣ならぬ者は無い」と断定し、「臣」にして「民」である日本人「臣民」の道徳を説く。「民」になってはならないぞ、「臣」たれ、と誡める「臣民」論であると言えよう。
おわりに
以上、簡単に「臣民」論を眺めてみた。法学者・穂積陳重は、君主国の主権に服する人民を意味するsubjectの訳語として、文字の上からも用例の上からも「臣民」が適切であると法学者が見なした。この二字熟語は、「臣」+「民」に分解して理解されたり、「臣」兼「民」=「臣民」と解釈されたり、果ては「臣」に独自の意味付けを与えたうえでの「臣」兼「民」=「臣民」とする新思想の題材にされたりと、多様な顔を見せることになった。現代でも、「臣民」を「臣」の「君主に仕える」のニュアンス(日本史上の用例的にはこう捉えるのが自然だろう)に重きを置く者もいれば、「臣」を隷従と捉えて(外国語の原義的にはこう捉えるのもまた妥当である)被支配者的ニュアンスから否定的に捉えるなど、やはり捉え方は様々である。
本稿では、戦前戦中の捉え方の一端を紹介した。戦中の例として、哲学者の紀平正美(1874~1949年)の議論も紹介したかったが、突っ込みたいところ、突っ込んだら脱線する所が多かったため、今後に回したい。
なお、日本主義的歴史学者・平泉澄が、中世の「臣」「民」の別を敢えて抜きにして、「臣民」の道徳として古典『神皇正統記』を訳した事例もある。この訳書については、別のところで論じた。