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わすれたくないSmall Talk ep.2

この日は近所のコーヒー屋であらかた作業を済ませたあと「あまねや工藝店」さんに立ち寄った。件の絵が気になって仕方がなく、とうとう夢枕にまで立たれてしまったからだ。

重たいドアを開き、ルオーの絵を見にきました、と伝える。奥から川口さんが出迎えてくださって、2階へ上がったあと「僕は遅めの昼食を取っていたところなので、まあ座って本でも読んでて」とすぐ階下へ降りて行ってしまった。

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おいおい、こんな貴重な(しかも剥き出しの)調度品の前で、よく知らない人間を1人にして大丈夫?となんとなくそわそわしたので、ソファで大人しく待つことにする。そのうちパイを焼くような香ばしい匂いが漂ってきた。昼食にパイ?この小さな店のキッチンで?あるいはうなぎの寝床と呼ばれる古い家屋のような深いレイアウトで、奥には広々としたキッチンと立派なオーブンがあるんだろうか?だとしたらこの時間に食べるのは甘いパイ?しょっぱいパイ…?

その香ばしい香りを嗅いでいたらなんだか力が抜けたので、まあ、いいか、と立ち上がり、本を一冊手に取った。この時展示を行われていた小野善平さんが資料として持参された、草天鵞絨の作品などが載った作品集で、前回訪れたときも読んだ。素敵な紋様がたくさんあって、心のシャッターを切る(写真撮っていいか聞いてなかったし、blink,blink.後で聞いたら全然いいよ、大したことじゃない、と言われて何枚か店内の写真も撮らせてもらった)。

並べられた小さきものたちからの視線を感じふと顔を上げる。プリミティヴな衝動。芸術はみな自然の模倣である、と誰かがささやく。前回、川口さんは中央に飾った作品を指し、これを僕はクレーの布と呼んでいるんだよ、と話してくれた。パウル・クレーが遺した天使たちが、記憶の奥でいかにも可笑そうに、クツクツと笑っている。模倣、模倣。プリミティヴで不可変なうつくしさ。芸術的衝動…?「全て何百年も前から、在り続けて、今ここに在るものなんですよ。不思議でしょう」当然のことのようだが、この環境下で聞いたその言葉には、言葉以上の重みがあった。しばらくして、食事を終えた川口さんがお茶を淹れて戻ってくる。

「何食べてたんですか?」

「えっ…パンとシリアルと牛乳と…。だいたい毎日同じものを食べるんです」

えー全然パイじゃなかった…

あなたは何か食べたんですか?と聞き返してくださったので、差し出されたお茶をすすりながら、プリンとコーヒーです、1日1食ちょっとしか食べないんです、と伝えると、フリーランスは身体が資本ですよ、と注意されてしまった。たしかにおっしゃるとおり。食生活を見直してみましょう。

普段は美術館や博物館でしか見られないような調度品を見ながら、そして見られながら、生活のこと、工藝と民藝、川口さんの生い立ち、あまねやの歴史、自費出版の話、スペインのオーケストラ、教育、宗教、エトセトラ・エトセトラ…たくさんの話をした。あまりの情報量に頭の芯が痺れてくる。自分の中のおぼろげな情報がつながって、登場人物たちが実像を持って目の前に立ち上がってくる。この人はまるで大ホールの壇上で話す講談師のようだ。”今一番チケットが取れない人気講談師”。

ブログの文章もカラッと、整っていて気持ちがいい。


お目当ての絵は、顔を合わせるたび、最初に抱いた印象から少しずつ柔和なものに変わっていった。夢の中でまで会っていたこともあって、どこか旧知の友人との再会のような、親しみ深い感触さえあった。まあこの絵はそんな、叱咤激励をするようなものじゃないですからね、と川口さんもおっしゃっていたので、私の感じている感覚とそんなに遠くないはずである。そして部屋に迎え入れた今日では、それはよりあたたかな手触りを持ってそこに在る。

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(奥様の百子さんが生けられている花が至る所に。さりげなくて品があって凛とした佇まい)

結局その日のうちに購入することを決め、ほんの少しの頭金を預けて帰った。展示を観に来る方がいらすと思うので、期間が終わるまでは置いておいてください、と伝えると、助かります、と一言。

会期終了後、残りのお金を握りしめて作品を受け取りに伺った。この日も宗教と土葬の話、小野さんに私が買ったことを伝えると、とても喜んでくれたということ、そして「いつかイスラエルに行ってください、そこに指す光、吹く風、見える景色は100年前とそう変わらないのですから」と、言伝されたことを話してくれた。帰り際には、買うことを決断できてよかったですね、と、川口さん。何かを購入して、そんな風に言ってもらったのは初めて。ああ、私が買ってよかったんだ…と、胸の辺りがじんわり温まるのを感じた。

こうして私はルオーの版画を連れ帰った女として、いつかイスラエルに出向くことを予言されてしまった。そんなふうに言われちゃな。本当に行くのかもしれない。行きそうな自分が怖い。なんか大変そうだしできるならやめてほしい。でもその物語にはなんだか、とってもワクワクする響きが含まれていますね。きっと近いうち、そんな風に旅を始めたい。原始の衝動に従って。


今日のsmall talk

「何百年も前から、在り続けて、今ここに在るものなんですよ」

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