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フラニーって何?

「アトリエ フラニー」、がこのサイトの名称ですが、それではフラニーとは何でしょうか。
このサイトの運営者は化学系の大学と大学院の出身ですが、実は元々文学少年でした。ご多分に漏れず、小学生の頃は(と言っても今から50年以上前のことですので、ご多分に漏れずと言うのはその頃の少年少女の「ご多分」のことです)、ドリトル先生やシャーロックホームズのシリーズを読み、その後は夏目漱石や芥川龍之介、安部公房や山口瞳、そして近年では村上春樹、などの日本を代表する作家を好きになりましたが、海外の作家、とりわけJ.D.サリンジャーのファンでもありました。
サリンジャーは第二次世界大戦で自ら陸軍に志願して入隊した後に欧州で終戦を迎えたのですが、それ以前から作家活動は始めていたものの、「ライ麦畑でつかまえて」で一躍世界的に有名な作家となり、その後も話題作を次々と出版します。主要な作品を並べてみると、
  1951年 ライ麦畑でつかまえて
  1953年 ナイン・ストーリーズ(短編集)
  1955年 フラニー
  1957年 ゾーイー(村上春樹訳では「ズーイー」)
「フラニー」と「ゾーイー」は二つ会わせて一つの物語を構成していますので、一般的には二つを会わせて「フラニーとゾーイー」と言う作品として知られています。
そう、その「フラニー」こそがこのサイトのメタファーなのです。そしてサイト運営者は1956年生まれで、だから何?、と言われるかもしれませんが、「フラニー」と「ゾーイー」に挟まれて生まれてきたことに奇縁を感じています。
で、その「フラニー」ですが、後に続く「ゾーイー」と対をなして、「問い」と「答え」、という関係性があると考えています。作品についての詳しい内容は実際に読んでいただくかウィキペディアに委ねますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/フラニーとゾーイー
かいつまんで内容をご説明すると、
フラニー:素直で潔癖で穢れなく正しくありたいと思っているにもかかわらず、周囲の大人のみならず同年代や自分自身でさえ自己顕示が強くスノッブであることに深く悩み、宗教的な祈りによって救いを求めるものの納得のいく回答に巡り会わずそれゆえ体調を崩していくフラニー。
ゾーイー:若者なら誰もが直面する理想と現実社会との折り合いの付け方や、自らの自意識とどう向き合えばよいのかという普遍的な悩みによって体調を崩して引きこもるフラニーを助るために、5歳年上のゾーイーは、目に余るスノッブな俗物に向き合うのではなく、集団の中にひっそりと存在している超俗物な太っちょのオバサマに喜んでもらえるように生きる、と諭し、その答えに安心したフラニーは眠りにつく。
太っちょのオバサマ、なんて突然に意味不明な説明で戸惑うとは思いますが、つまり、自分なりの解釈では、大上段に振りかざして世界に対峙するのではなく、自分に求められたやるべき仕事にまずは向かい合え、と言っているように受け止めています。自分は会社の中でもっとできる存在だ、と不満を言い続けているより、まずは目の前の山に登ってみなければ次の新しい世界は見えてこない、と言っているようです。まるでビジネスの世界を言い当てているようにも思えます。
または、この二つで一組の作品は、フラニーが悩み答えに窮している「問い」と、ゾーイーの優しくわかりやすい「答え」、でできあがっています。この「問い」と言う考え方に関して、ハーバードビジネスレビュー2018年9月号ではおもしろい記事「ブレインストーミングではあえて『問い』を追求せよ」が掲載されていました。
https://www.dhbr.net/ud/backnumber/2018年9月号特集:発想するチーム
議論ではたいてい課題に対する答えを求められるものですが、その課題そのものが正しいのか、その課題は今議論するべき問いとなっているのか、どのような問いを議論するべきなのか、と視点を変えることで新たな発見があるのではないでしょうか。
優れた文学作品は優れたビジネス書でもある、ということをいつも気づかされますし、「フラニー」と「ゾーイー」が優れた文学作品であるのは、問いであった「フラニー」が優れているからこそ、その答えの「ゾーイー」も優れている、と言えるでしょう。
それゆえ、皆さんと共に問いを作っていく、と言う思いを込めてこのサイトをフラニーと呼ぼうと思った次第です。

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