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CORNER SHOP SESSIONS 2 出演アーティスト紹介(4):沼田謙二朗



日本流フォークミュージックの正統な継承者である。本人にそのつもりがあるかどうかは分からない。気がついたら「そうなっていた」と言った方が適当かもしれない。

ウッディ・ガスリー、ボブ・ディランと続くアメリカンフォークの流れは、その歌詞内容はもちろんのこと、彼らの源流であるブルーグラス、カントリー、ブルースといった音楽性ごと引き継いだ「フォーク原理主義」と、彼らの詞に殊更着目、増幅させ、アコースティックギターの使用は、その音色というより、歌詞を邪魔しないため、といった「印象派」に分かれると言ってよい。前者が岡林信康、あがた森魚、小坂忠、後者は、井上吉田松任谷を筆頭に、現存するSSWの殆ど、間に立つのが友部正人といった感じか。

そして沼田は、ズブズブの前者である。満開の印象派に押されて原理主義者は駆逐されたと思ったら、ここにいた。サウンドも、歌詞も、歌声も非常に骨太である。無骨である。そして、底無しに優しい。

もうちょっと具体的に書いてみよう。沼田の歌には、表面上ちまちました、彷徨える自我の懊悩が全くない。あ、いや、沼田自身に懊悩がないと言っているわけではないよ(後述する)。あるに決まっている。決まっているんだが、出てくる歌は、「笑うんだよ!(ビシッ)」「わかんない!(ビシッ)」こんな感じだ。実に分かりやすい。だから聞き手はすぐに「そうだよな!」となる。これが、SSWにありがちな、歌詞の受容にかかる時間を抹消させ、耳に、心にストレートに入ってくる。沼田の歌は(本人の意図はどうあれ)聞き手の行動を促すが、その伝達の速さから、聞き手はすぐ頷ける。そうだよな、と。この決断の速さ、言い切る力はやっぱりブルース原初だろう。「俺のかわい子ちゃんがいなくなった。俺は死にたい」「あいつが浮気したら俺は銃を持って…」この「爽やかな悲劇性」を沼田もまた持っている。

さて、この悲劇性は、どこからくるのか。俺は詳しくは語れない。だが、彼が、東日本大震災の当事者であったこと、能登に足繁く通っていること、彼のダイヤリーから、彼がその悲劇の当事者、傍観者、もしかすると加害者のメンタリティと罪悪感を持っていることが、彼の「悲劇性」に一層の説得力を持たせている。彼は、実はブルースである。

してみると、名前通りの、彼の明朗な歌いっぷりのどこかに、沼田謙二朗の「苦しみ」は隠れている。mogumoguのような小さな会場では、それも見つけ易かろう。明朗の真後ろにある、彼の苦しみを、コーヒーを啜りながら、俺は感じてみたくなった。

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