見出し画像

「シン・エヴァンゲリオン」劇場版の覚え書き


※ネタバレを多分に含みます。
まだご覧になっていない方は読まれないようにお願いします。
※本項はあくまでも個人の感想であり、特定の対象や人を批判、中傷するものではありません。

完結した。1995年にアニメ版が公開され、多くの熱狂的なファンを獲得するとともに、その分大きな批判も浴びた「エヴァンゲリオン」が、実に25年の時を越えて本当の終わりを迎えました。
僕がアニメ版のエヴァを見たのは、すでに時代が21世紀に変わって少し経ったころだったと記憶しています。当時10代の真ん中ごろの僕は、このアニメが何がいいたかったのかさっぱりわかりませんでした。

今回、この映画を見る前に、新劇場版の3つを見返しました。アニメ版、旧劇場版、そして新劇場版「:Q」で味わったモヤモヤが解消されるのかどうかを考えながら映画館に向かいました。

■背景
このアニメが公開された1995年は、日本中がとても暗い時期にありました。バブル崩壊で経済が大きく低迷し、1月17日に阪神淡路大震災が発生、6,000人以上の尊い生命が失われ、40,000人を超える人々が負傷しました。
その後オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こし、人々の中に「終末思想」ーつまり、この世の終わりのような空気が広がっていました。
「エヴァンゲリオン」は、そんな時代に呼応するストーリーです。
セカンド・インパクトと呼ばれる厄災によって世界の人口の半数が消え、人類は新たな世界の建設を余儀なくされる。
使徒と呼ばれる未知の生命体に対抗するため、人類はエヴァンゲリオンという人型決戦兵器を開発する。
「エヴァンゲリオン」は、大人たちが自らのエゴのために進める人類補完計画と、それに巻き込まれながらも生きていく少年たちの姿を描いたストーリーです。

今更書くことでもありませんが、この作品がそれまでのいわゆるロボットアニメと大きく異なるのは、宗教的なモチーフを散りばめながら、とても人間くさいストーリーにあると考えます。
エヴァンゲリオンに搭乗できる少年少女たちは、エントリープラグ(コクピット)内でLCLと呼ばれる溶液に体を浸す。これは母の羊水と子宮を表しており、エヴァ本体にもパイロットの母のDNAが組み込まれている。つまり、基本的にそのキャラクターしか操縦できないことになっています。
また、エヴァを通した彼らの成長も、この作品の見どころの一つと言えるでしょう。

■新劇場版の到達点
印象に残ったシーンが2つあります。
一つは物語中盤、アニメ版と旧劇場版のサブタイトルが高速で流れるシーンです。
新劇場版は、これまでの作品としてのエヴァを否定しなかったこと。

冒頭でも述べたとおり、「エヴァンゲリオン」は大きく賛否を巻き起こした作品でもあります。旧劇場版はファンを置いてきぼりにし、あまりにも有名なラストシーン、白い砂浜に横たわる惣流・アスカ・ラングレーの首を絞め始める碇シンジに、アスカは一言だけ吐き捨てる。
「気持ち悪い」。
次の瞬間、「終劇」のテロップとともに唐突に物語は終わる。

「エヴァンゲリオン」にも多くの女性キャラクターたちが登場しますが、彼女たちは二次元の世界にどっぷりと浸かる男性たち(いわゆるアニメオタク)の「人形」であることを自ら否定する。つまり、ファンの価値観を否定しました。
旧劇場版のラストシーンの他、綾波レイが「私はあなたの人形じゃない」と碇ゲンドウとの結合を拒絶する場面もまた、象徴的なシーンと言えます(このため、多くのファンから批判を浴びることになりましたが)。

2012年に公開された新劇場版の前作「Q」は、それまでとまったく異なったストーリーが展開されました。何の説明もなく進んでいく。何にも知らないのは、劇中の碇シンジと鑑賞者だけであるというように。
また観る側を否定し、置いてきぼりにする気かと思った。そのまま8年の歳月が経ちました。
しかしそうはならず、この最終章で辻褄が合いました。
白い砂浜のシーンも再現されますが、シンジがアスカの首を締めることはありませんでした。親友・ケンスケの元に送り出し、アスカもまた愛する人のところへ帰っていく。それぞれがかつて抱いていた想いを告げて。

もう一つ印象に残ったのは、父親としての碇ゲンドウです。
ゲンドウは、シンジの精神世界で対話し、父親としての戸惑いや妻・ユイを失ったあとの喪失感を激白します。
そして新劇場版では旧劇場版と異なり、ゲンドウがシンジの成長を寂しさと喜び、複雑な気持ちを噛み締めながら電車を降りていきます。
僕はこのシーンを観ながら、自分の父親が僕のことをどう見ていたのだろうと考えました。
どれだけ父親と話すことができていただろう。
今となっては確かめることもできませんが、人生の節目(というものがあるとすれば)を少しでも見せることができたのは、少しは親孝行ができたかなと思います。
そんなことを考えながら、少しぐっときた。

■「落とし前」をつける
シンジと葛城ミサトはそれぞれの父親が計画・実行しようとしたことの落とし前をつけに行きました。
そして庵野総監督自身も、これまでの作品としてのエヴァに対する落とし前をつけに行きました。

新劇場版のこれまでの3作品には、サブタイトルに共通して(not)がつけられました。そして最終章のサブタイトルは、「Thrice upon a time」。アニメ版と旧劇場版に対する、「三度目の正直」としての結末。

かつて1997年ごろのインタビューで、庵野総監督は碇シンジという主人公は過去の自身かと問われ、こう答えています。
「碇シンジは、今の自分そのものです」。
今もそう考えているかもしれません。しかし、今の気持ちは、以前とは少し違っているかもしれなません。

失礼を承知ながら書かせてもらうと、彼が健在なうちに完結するのかと思っていました。アニメ版の公開が25年前、文字どおり再起動された新劇場版が2007年に始まって、いつ終わるんだと思っていた人も少なくないはず。
平成が終わり、時代は令和に移った。
「新世紀エヴァンゲリオン」の新世紀もここまで20年が過ぎていましたが、それでも、この作品は完結に至った。
これまでのモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。
旧劇場版で報われなかったキャラクターたちにも、それぞれ花道が用意されていたのは本当によかった(特に葛城ミサト)。

長々と支離滅裂な文章になってしまいましたが、この作品の最後を観ることができてよかった。
2021年3月10日にこの映画を観て、自分の中で熱が冷めないうちに、気持ちを残そうと思い書きました。
すべての覚悟、賞賛、批判を背負って最終章を送り出した庵野監督ならびに全ての制作チーム、関係各社に拍手を送りたい。

さらば、全てのエヴァンゲリオン。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?