小児性愛をめぐる議論について

 しばらくネタを放置していたので大分前の話題になってしまうが、「私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話」というブログを読んだので、その感想を書きたいと思う。リンクは以下。

https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/neda17138f9f7

 以前、ラブドールの使用を推奨する漫画が実在児童への加害に繋がるとして炎上し、その炎上へのカウンターとしてラブドールというフィクションで実在児童への加害が助長されるならワンピースの影響で大航海時代が始まっているといった揶揄がなされた件に言及するものである。ざっくりと内容をまとめると、小児性愛は性的指向ではなく、性的嗜好である。また、小児性愛は加害性を持つ。だから、小児性愛者は自身の加害性を自覚し、社会からの眼差しを茶化さず、実在児童への性的加害を絶対に許さないという姿勢を一般人よりも真剣に示すことで自らの存在を社会に許容してもらおうといったものである。

 重要な点としてそのような姿勢を示すべきだという筆者のステートメントは、推奨のニュアンスも含むが義務のニュアンスも含むと読めることを指摘しておきたい。

 筆者の立論はそれなりに説得的であるように見えるが、いくつか気になった点があるので、それについて考察してみたいと思う。

 まず、小児性愛は性的嗜好であり、性的指向である同性愛などとは区別されるという主張が気になる。筆者は性的嗜好を性的行動の対象にその人固有の特徴があるという意味で、好みやこだわりに分類されるとし、ジェンダー間で性的魅力を感じるパターンや性的なアイデンティティを指す性的指向とは全く異なるとしている。

 確かに両者は相手の年齢などを気にするか、相手の性別を気にするかで「区分はできる」が、なぜその区分が「強調されねばならない」のかは全く明らかでない。反対に異性愛も含めて、相手の何らかの属性に反応しているという区分で語れば、両者(三者)は同じものであると言えてしまうのではないか。このような議論をする時には往々にして「だから同性愛は好みの問題にすぎず、何かしらの権利を与える必要はない」といった方向に向かいがちだが、私の主張の力点は小児性愛も好みの問題ではなく性的指向と呼べるのではないかという点にある。

 さらに重要なことに、我々が問題にすべきなのは小児性愛が性的嗜好か性的指向かではないのではないかと指摘したい。某氏のツイートの受け売りであることを断った上で説明すると、我々が小児性愛を問題にするとき、問題になっているのは小児性愛が実在児童に対する行為に転化した場合確実に加害性を持ってしまうという点ではないのか。それは仮に小児性愛が性的指向であったとしても全く揺らぐことのない問題点だろう。つまり、真に問題なのは小児性愛が実在児童を対象にしたときの加害性であり、小児性愛自体の分類学的身分ではないのだ。もう一歩踏み込むと、小児性愛の問題を論じるうえで性的指向と性的嗜好の区分を持ち出すことは、どのような行為が「加害性を持つ」という理由で規制や矯正されるべきなのかという本来の論点をぼやけさせてしまうという点で有害ですらあると私は考える(注1)。分類学的な身分の議論がなされるのは、自ら「選んだ」嗜好であれば、同性愛などの「選べない」指向と違って規制が正当化しやすいという直感が働いているからだと考えられるが、加害性の観点から規制論を正当化するならば、仮に小児性愛が指向であっても断固として規制するという覚悟が必要だろう。

 本来は、一本で書こうと思っていたが、思いのほか字数が伸びてしまったので、これを前編として筆者の小児性愛者の義務を論じるステートメントは過大であるという指摘を後編でしたい。加えて、誤解を生みそうなので事前に予防線を張っておくと、私はそもそも強姦などにあたる行為は当然論外であり、それ以外の形態の小児性愛も実在児童に実際の行為が向けられるならば大部分は規制できると考えている。また、一見論理的には妥当そうな主張しているが、論者の主張を全体的に見るとその論者が本来批判すべき点について、一方の立場に対しては抜かりなく批判を加えるが、もう一方の立場に対しては見て見ぬふりをするというような党派性の強い言説に極めて批判的であることも申し述べておきたい。

注1:当然、そもそも小児性愛の現実化は加害性を持つのかという問いも開かれた問いである。

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