見出し画像

聖ペトロと聖パウロの祭日

今日は聖ペトロと聖パウロの祭日だ。たとえばこの二人の共通点・相違点を比較して書くとしたらきっと面白いだろうな。出身も、身分も、教養も、生前のイエズス様に出会っているかどうか、学問的か、神秘的か、結局最後二人はどうなったか。あまりにも違いすぎて、そしてあまりにもこの聖人たちが教会にどれだけ大事な存在か、細かく描写してゆけばゆうにちょっとした黙想本一冊くらいになってしまうのではないだろうか。

二人の共通点は殉教くらいで大きな共通点はないのだが、この二人がいなければ今日教会はないと言ってもいいだろう。

ペトロは復活の主イエズスとの出会いによって3度も主を拒み泣いたのに、勢いまかせの計画なしな漁師なのに、人々の中へ飛び込んで力強くイエズス様を述べ伝えた。こうして「この巌のうえに教会を建てる」とのイエズス様の言葉は実現する。ペトロの最後は、ローマでの迫害から逃げようとしてい途上でイエズス様の出現を受け、「主よ、どこに?(ドミネ・クォ・ヴァディス?)」と尋ねたらイエズス様は「(お前の代わりに)もう一度十字架につくため、ローマへ(エオ・ロマーム・イテルム・クルチフィギ)」とお答えになり、ペトロは慌ててローマへと引き返し、「主と同じでは畏れ多いから」と言って逆さまに十字架につけれられ殉教したと伝えられている。イエズス様のがさんざん手を焼き愛した弟子と言えるのではないだろうか。

一方、パウロもまた復活の主イエズス様に出会い、サウロからパウロへと回心し、地中海世界へと宣教の旅に出てイエズス様の福音を述べ伝え、その様子とともにイエズス様の福音と救いの出来事と伝承を書簡という形で文書化し新約聖書中最も早い文書となった。パウロの力強い宣教、異邦人と律法の問題に関する話し合いと解決など素早い「教義化」、司牧書簡などにみえる親心的な「マニュアル」によって初期キリスト教団は会堂からの追放に耐えたと言えるのではないだろうか。パウロ自身の言述によると、自身の身に棘が与えられているとある。多くの人はてんかんではないかと指摘するが、パウロはその苦しみの最中の出来事を覚えているところから、重度の抑鬱か激しい双極性障害だったのではないかという説もある。(ボンフェッファーの父カール・ボンフェッファーはこの説を支持している。)パウロは生身のイエズス様に接していないが、イエズス様と出会っており、イエズス様の福音を知り、再臨信仰の中で教会を励まし、使徒として生き使徒として殉教した。わたしたちが肉体の眼でイエズス様を見ることができなくとも、イエズス様と出会うことが可能である現実は、聖パウロが一番初めに教えてくれたことと言えるだろう。

今日は二人のことを長く書くつもりはなく、代わりに聖ペトロと聖パウロがわたしたちに残した言葉の中で僕が好きなものを紹介させていただきたい。

日本のカトリック教会では、ごミサのたびごとにご聖体のイエズス様にむかって告白します。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう」

これはヨハネ福音の「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(ヨハネ6・68)と、マタイ福音の「あなたはメシア(=キリスト)、生ける神の子です」(マタイ16・16)とを組み合わせて作られた信仰告白文だです。人々がみんな去っていくなか、聖ペトロがイエズス様に向かって叫んだ言葉です。「私たちは誰のところへ行きましょう。」と。第二バチカン公会議後、ミサの日本語翻訳が始まった時に、この信仰告白文があまりにも抒情的で「芝居役者みたいな祈りをさせるな」という苦情が殺到したそうです。僕は「あなたをおいてだれのところに行きましょう」という反語が日本人のメンタリティにぴったりだと思います。だって、日本語は一番言いたいことを文脈と行間に隠す言語ですから。他の国では百卒長の信仰告白が使われています。

もう随分前に現行ミサの改定第三版が発布されました。拝領前の信仰告白を元に戻すよう通達があるとかないとか伝え聞きました。言えるうちに精一杯告白してご聖体のイエズス様をお迎えし心も体もイエズス様に結び合わされたいものです。

画像1

パウロはローマの教会の不安定さや偶像崇拝の習慣についての教会内での認識の違いなど主に罪に関する内容の書簡を送っています。冒頭は激しい口調で、かつレトリカルに罪を論述します。ですが、この書簡のちょうど真ん中にパウロの本心が描かれているように思います。

パウロは同性愛批判によく用いられます。実際、古代と現代を比較する時には対応関係がないと言っても現代のものを当て嵌めたがるものです。一人でイマジネーションを膨らますならともかく、それ以上の釈義や文化背景を調べもせず、伝統でもない「伝統的教え」を振りかざして人を罪に定める権能は人に与えられていません。パウロは次のようにローマ書の中心で「核心」を述べています。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8・31-39)

わたしたちは罪に定められることより、イエズス様によって示された神さまへの愛から引き離されることの方が大きな問題です。でも、大丈夫。聖人ははっきりと言っています「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と。

この偉大で愛すべき二人の使徒の教えに接木された者としてしっかり根を張って生きることができる恵みを使徒の元后である聖母マリアの取り次ぎによって願いましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?