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ソドムの滅亡とは何を意味するのか

ソドムの滅亡
1二人の御使い(1)が夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、 2言った。
「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」 3しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。(2)
4彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たち(3)が、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 5わめきたてた。
「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4)
6ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、 7言った。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。 8実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(5)
9男たちは口々に言った。
「そこをどけ。」
「こいつは、よそ者のくせ(6)に、指図などして。」
「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」
そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
10二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、 11戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。 12二人の客はロトに言った。
「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。 13実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」

テキストの背景
 もともとソドムのテキストはJ資料にあり、古代の原因譚で、「邪悪の故の滅び」という形式で語られる「祖先の家系物語」と考えられます。現代多くの教派がいままで採用していた「同性愛と旅人への性的暴力の問題」との解釈は19世紀以降におきた解釈である(後述します)。

(1)(2)「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 」という神に対し、アブラハムのソドムの町へのとりなしにより、正しい人が10人いたら滅ぼさないという約束の元、旅人の姿でみ使いが派遣される=接遇義務が発生する

(3)「アナシーム」=「男たち」=「人々」 同義語 前提解釈により引っ張られた翻訳例 「男たちとは限らない」ことが前提解釈により無化されている。極めて恣意的。

(4)(5)「なぶりものにする」と訳されている「ヤーダー」のメインの意味は「知る」で、旧約中943回使われている。うち10回は性交の意味で使われている。「まだ嫁がせていない」には「ヤーダー」が使われているがこれはきわめて妥当=「まだ男の人を知らない」という文脈。
 ソドムの人々の目的が性的なものなら「ミシュカーブ」「シャーカブ」(床に横になる)方が的確。ここで「ヤーダー」を性的な意味で使うのは文脈的におかしい。

(6)よそもの恐怖症(ゼノフォビア) ソドムの罪の本質。接遇義務違反、ホスピタリティの欠如は弱い立場に置かれた人々の命に関わる問題である。神に従いホスピタリティの実践に生きるアブラハムとロトとよそもの恐怖症で集団暴力をおこすソドムの人々との対比が私たちへの教え。

「ソドム」という言葉
  中世期「ソドミタ」という造語が造られ用いられる。
 17世紀のジェームス王欽定訳において神殿男娼(レビ)に「ソドマイト」という言葉をあてた。影響として同時期にイギリスで制定された特定の性行為以外を禁じた法律にソドミー法と名付けている。
 「ソドマイト」も「ソドミー」も聖書的根拠はなく、使い方としても誤訳である。聖書に同性間の性的接触を意味する語彙はあるものの、その当時の様々な「性的現象」に中世の造語「ソドミタ」から借用し、翻訳や法律名に適応するのは明らかに言語操作である。
 なお、ソドムの滅亡が、ソドムの街に男色行為が満ちておりその行為を罪として滅ぼされたという、根拠のない(根拠になり得ない)解釈が生まれたのは19世紀以降である。それ以前にはそのような解釈は見つけることができない。

 併せて、レビ記とパウロ書簡の読み直しにより、聖書でいうところの「男色」や「男と寝る者」は現代使われている「同性愛」や「同性愛者」と言う言葉(指し示す存在内容)字義的に同義語として扱うことは不可能であることかがわかるし、各テキストのコンテキストを知ることにより本来語られるべき「問題」や「罪」をあらためて受け取ることができるだろう。字義的にもコンテキストでも聖書の記述との対応関係が認められない場合、それを根拠に同性愛・同性愛者を罪と定めたり社会や教会において断罪することは不可能である。ただし、カトリック教会の自然法や東方教会の伝承を根拠とした同性間の性的接触と同性愛者への言及は根拠が異なるので、聖書テキストのみで反駁することはできない。「同性間の性行為」と「同性愛者である」という存在自体に分けて言及しており「同性愛者である」という存在そのものは罪に当たらないと言っている(「カトリック教会のカテキズム」2358)。

「ソドムの罪」とは何か
 ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。 彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。(エゼキエル16:49−50)
 
 ソドムの罪は、神の道から離れた傲慢、偶像崇拝、飽食と繁栄の中で社会的に小さくされた人(貧しい人、助けを必要とする人、見知らぬ人、よそ者)を助けなかった怠慢さ、冷酷さ、正義の腐敗です。(山口里子「虹は私たちの間に」p36 新教出版 2008)
  

 しかし、ソドムの話を基にして教会が実践してきたことはどういうことだったでしょうか?同性を愛する人々・「同性愛」の人々に対して、最も激しく冷酷なゼノフォビアを表し、最もホスピタリティに欠く傲慢な態度をもって臨んできたのは、キリスト教会そのものだったのではないでしょうか?神の怒り、神の正義の裁きによる滅亡を招いたソドムの本当の罪、この重大な不義と罪を今日も繰り返しているのは、聖書が伝えるメッセージによれば、自らの過ちを悔いて同性愛の人々に赦しを乞おうともしない教会の傲慢に他なりません。ソドムの話を読む時、このことを何よりもまず、しっかり心に止めたいと思います。(山口里子「虹は私たちの間に」pp50-51 新教出版 2008)

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