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創造の秩序・創造の豊かさ テキストを丁寧に読む


7月28日のズーム勉強会「LGBTとキリスト教」のレジュメです。ほぼほぼテキストの抜き書きです。

「神の創造の秩序」 

 同性愛を批判する反同性愛の立場の人の主張に「神の創造の秩序に反する」というのがありますが、あれは一体何を意味しているのでしょう。「神は男と女に作られた」「男女で結ばれ子供を授かる」といったものがおおかたの内容でしょう。また男性への女性の従属を「秩序」とする主張なども例として挙げられるでしょう。女性差別と同性愛者差別は密接に結びついています。私達に求められるのは差別的発言に反駁することではなく、聖書本文を丁寧に読み、そのコンテキストから今日神が語られていることは何かを聖書に聞くことです。イデオロギーの正当化のために聖書を用いてはならないことを学びましょう。秩序を与えるのは神であり、人間が神の意思を秩序づける(自己の偶像化)のではないことをはじめに確認したいとおもいます。


創世記とはどういう書物か
 旧約聖書全体の前書きであり、律法としてのモーセ五書の序論。
 紀元前550年頃に編纂されたイスラエルの産出(トレドス=ゲネシス)の記録。
 10のトレドス(系図・算出・経緯・歴史)の羅列よりアダムの傍系子孫を取り除いたトレドスにエピソードを関連づけて綴られていく文章形式をとる。前半は「原初史(原因譚)」、後半は「家族史・通俗史・宗教史」でもある。複数の口伝資料の組み合わせと言われている。モーセ五書だが律法的言及はありません。(創世記を律法のように援用することは道理にかなうこでしょうか?)
 紀元前20年〜10年のメソポタミア(ギルガメッシュ叙事詩)や古代近東の思想に影響を受けながらも、独自の口伝も継承されています。
 ex.)「唯一神(一部複数形あり)」「人間の堕落」「男と同格のものとしての女の創造」「誘惑と堕落の描写」「救いの約束」など。
 史実的に正確な歴史書とは言えないが、民族史・宗教史上の「歴史書」である。文学としての神話性はほぼありません。一貫して神が民に何をしたか、民は神に何をもって応えた(応えなかった)かが描かれています。
 
 創造物語は創世記1章と2章だが、1章はP(祭司)資料記者により紀元前6世紀、バビロン捕囚後に書かれた。創世記において一番最後に書かれた箇所である。この箇所は捕囚によってバラバラにされ、奴隷の身から解放されたばかりのイスラエルの民に向かって語られた神の言葉であることを踏まえると、より深いテキスト理解が得られると考えられます。
 独立国家として生きる道を完全に断たれ、傷つき、何もかも奪われ、長年奴隷の身であった捕囚後のイスラエルの民にとって、全世界の創造主なる神への信仰、無から有を呼び出す神への信仰はきわめて大きな慰めであったでしょう。その神に選ばれた民であることだけがよすがであったのではないでしょうか。彼・彼女らに対する神の「光あれ」という言葉、神の似姿として「男と女に創造された」人間存在、その人間に対する神の祝福「見よそれらは極めて良かった」「産めよ、増えよ」との言葉は、彼らにとって福音そのものだったはずです。「光あれ」の言葉の意味するところのものは、この背景なしにはリアルに理解するのは難しいように思います。神の全能性と光と闇の差異から私達は何を導きだせるでしょうか?多分にイデオローグされたイメージになってしまうのではないでしょうか。このイデオローグされた視線もしくは目線による聖書の読み込みには注意が必要です。なぜなら聖書の視座に立つことなく生活の座へと聖書テキストのコンテキストを引きつけることはありえないからです。

 一方創世記2章はJ(ヤハウェスト)資料記者によって書かれた記事で、2章ですが1章よりも早い紀元前10世紀のダビデ王朝時代に書かれたものとされています。この創造物語には1節と違い、男(イシュ)と女(イシャ)が出会いカップルとなるところまで書かれています。その背景として紀元前12世紀ごろ、狩猟民族であったイスラエルが鉄器時代に入りカナンの高地で農耕民族として定住するという歴史的背景があります。安定した定住生活のため、この頃のイスラエルには一人の神、一組の両親と直系子孫として民族の統一を図ろうとする政治的背景があります。その背景が創世記2章には色濃く反映されています。 

テキストを読む(創世記1ー2)

 1 1初めに、神は天地を創造された。 2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。 4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
6神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
7神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。 8神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
9神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。 10神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。 11神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。 12地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。 13夕べがあり、朝があった。第三の日である。
14神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 15天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。 16神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。 17神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、 18昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。 19夕べがあり、朝があった。第四の日である。
20神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
21神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。 22神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
23夕べがあり、朝があった。第五の日である。
24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。 25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 26神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
28神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。 31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2 1天地万物は完成された。 2第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 3この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
4これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 5地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
10エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。 11第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。 12その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。 13第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。 14第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 16主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。 17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
18主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
19主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 20人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
21主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 23人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
24こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
25人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

確認および注意しなければいけない「視点」
イデオローグされた視点(男女二元主義・父権制的異性愛主義)
既存の聖書解釈の諸主張(男女どっちが先に罪を?女性の従属は正しい?)
選択した聖書語句による自己の主張(イデオロギー)の正当化
聖書に書かれていないものへの想像力の欠如(人種・民族・異性愛以外の性的指向)
「誰」が聖書を翻訳し解釈してきたか?(エリートによって)
  聖書本文より解釈者のイデオロギーに深く根ざしているものの識別。
  聖書の神話的共同体伝承の引用は「代表例」であることに留意する。
  聖書の「多重性」を見逃さない。「声なき声」を聞き逃さない。

「神の創造の秩序に反する」との誤謬を無化する
 自分だけが神の似姿だと主張することはできません。人間の尊厳の法源は神からのものであり、誰もが完全な者ではないが、皆尊厳を有し、等しく神の子です。人種・性・身体的特徴・個性など違う人々が違うまま共に生きられる多様性の豊かさは神の似姿性を表すものであり、これを神の創造の豊かさと言います。つまり、わたしたち一人ひとりが誰も取り残されることなく自分らしく生き、パートナーを愛し向かい合い(同じところを見ながら)生きる時、同時に隣人を愛し寄り添う時、神の創造の豊かさへの参与を果たします。神の創造の秩序とは聖書が示す多様性に富んだ社会でのあり方、そのために必要な自己受容と他者承認であり、それらを引き受けて生きる時、今も続く神の創造の業の豊かさに参与する者とされます。


 聖書の神話的共同体伝承の引用はひとつの「代表例」であり、それ以外の者を退けることはできません。「産めよ、増えよ」という祝福の言葉は、すべての男女の関係が性的であるべきという意味ではありません。あらゆる性的関係が「男女」であれという意味でもありません。また、そのような関係を持たない生き方を斥けるものでもありません。先述の通り聖書伝承の引用は「代表例」であり全人類の規範ではありません。例えば男女のカップルが互いを尊重せず神の似姿をあらわさず出産・育児も放棄し努めていなければ「代表例」からはほど遠いものです。「代表例」がすべてであると位置づけるのならば、この人たちは「神の創造の秩序に反する」と言わざるを得ません。神の創造の秩序に従ったのになぜこのようなことがおこるのでしょうか?そもそも「代表例」を絶対化することが正しい主張でしょうか?


 創造物語のなかの「土塊」にすぎない人間が「骨の骨、肉の肉」と共感共苦の叫びをあげた時、人は初めて「違い」に開かれました。そして助け手・同伴者・連れ合い(エーゼル)として神の似姿に造られた者同士が、向かい合い生きていく者(エーゼル・ケネグドー)となっていくのです。また、カップル、単身者と違いはありますが、生活・信仰共同体のなかでみな同じ神の子として造られた者として共に生きていくことが期待されています。


 違う二人が出会い、父母の元(矛盾している)を離れ二人は一体となるということの真意は、家父長制度のなか「男」が同伴者となる「女」に出会い、親を「捨て去り」その「女」に「すがりつく」というのが原意に近い表現です。ある意味ジェンダー観の転換ともいえるとても強い表現です。


 こうして一対一で向き合う存在(エーゼル・ケネグドー)となった二人はお互い裸でも恥ずかしくないわけですが、裸でいても恥ずかしくない者として一対一で向かい合う存在という関係が性的な人間存在として最も大切な事柄として聖書は示しています。性は神からの賜物です。「代表例」に示される、性的な人間存在に必要なパートナー観と人間理解、貞潔の基準となる理解こそ神の創造の秩序とその豊かさなのではないでしょうか。

【参考文献】
山口里子(2008年)「虹は私たちの間に−−性と生の正義に向けて」新教出版 pp83-120

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