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悪徳表が意味するところのもの


あくとくひょう 悪徳表
〔英〕 catalogue of vices, 〔独〕 Lasterkatalog, 〔仏〕 catalogue de vices

悪徳の項目を次々に並べたもので、旧約聖書にはないが, 新約聖書と使徒教父の文書とにしばしば出る。
【背景】悪徳表はヘレニズムの民間哲学が初めて用い、 ヘレニズム・ユダヤ教が採用した (例えばフィロン)。クムランの悪徳表 (『宗規要覧』 1 QS IV, 9-14) にはヘレニズム哲学の影響は認められず、独自の位置を占めている。 他方、ナグ・ハマディ文書にも例がある。このように悪徳表は徳目表とともに、新約時代の諸哲学、諸宗教で、一般に好んで用いられた。
【新約聖書】新約ではパウロおよびその系列の手紙に多いが (ロマ 1: 29-31; 13: 13; 1 コリ 6: 9-10; ガラ 5: 19-21; コロ 3: 5; 2 テモ 3: 2-5 等)、福音書 (例えばマコ 7: 21-22)、ヨハネの黙示録 (21: 8 等) 等にも例がある。 このことは、初期の教会で、おそらく洗礼と結びついての教育で、これが盛んに用いられていたことを示唆している。これらの悪徳表であげられている項目はいつも同じではなく、また悪徳表の項目数、形式も種々である。ガラテヤ書 5: 19-21 の悪徳表では最後に 「その他このたぐいのもの」 という言葉がついているが、これは, 悪徳表は悪徳を例示するものであって、すべての悪徳を数え上げることは初めから意図していないことを示している。
新約の悪徳表で列挙されている項目は当時の周辺世界のそれであげられているものと同じものが多く、キリスト教独自のものは少ない。これは, 信徒の道徳生活は形に現れるかぎりでは、一般のそれとかけ離れたものではないとの認識を反映している。

【文献】
Vögtle, Die Tugend- und Lasterkataloge (Münster 1936).
S. Wibbing, Die Tugend- und Laster-kataloge im Neuen Testament und ihre Traditionsgeschichte (Berlin 1959).
E. Kamlah, Die Form der katalogischen Paränese im Neuen Testament (Tübingen 1964).
(佐竹明)新カトリック大事典 © Academic Corporation: Sophia University

問題の所在
 教会は自らが置かれた社会的・文化的コンテキストから様々な問題を提起され、それらに具体的に応答するために、いつの時代も何らかの倫理的規範を保持してきた。その都度の倫理的判断は、聖書や教会的伝統との対話の中から生まれてくるのであるが、その判断や要請が時代の影響を強く受けていることは言うまでもない。それゆえに、伝統的倫理の中で強力な規範となってきた考え方が、別の時代に根本的に問いなおされるということも起こり得る。
 今日におけるその典型的な例の一つが、性に関する倫理である。その具体的な課題としては、女性と男性の平等性の問題、ジェンダーやセクシュアリティの問題、性の多様性の問題などをあげることができる。こういった問題群は一般社会の中ですでに議論されてきているが、キリスト教はただその議論に追随するだけでなく、自らの聖書的・教会的伝統に照らし出した上で、社会的に価値のある問題提起や解決を示していくべきであろう。社会的な価値や有効性を考えなければならないのは、この種の問題が教会というサークルの中で完結しないからである。教会の内側でのみ適用可能な倫理を構築することは、問題の本質を見誤ることになりかねない。
 しかもキリスト教には、伝統的な性道徳を追認するような形で聖書を解釈し、また性に関する事柄を一般的に軽視あるいはタブー視してきた歴史的経緯があるので、これらの問題を受けとめていくためには、キリスト教的性倫理の再構築が不可欠なのである。
 性に関する規定はヘブライ語聖書(旧約聖書)にも見られる。例えば、同性愛に関してしばしば言及される箇所として創世記一九・一―二九やレビ記一八・二二、二〇・一三などがある。しかし、ここではキリスト教的生活の中でより倫理的規範性の高い新約聖書を中心的に取り上げることにする。

一コリ六・九―一〇
 「......男娼(malakoi)、男色をする者(arsenokoitai)、......は、決して神の国を受け継ぐことができません」。
 この箇所のように悪徳が列挙される表現形式は「悪徳表」(catalog of vices)と呼ばれてきた。同様の形式は当時、ギリシア・ローマの文学の中だけでなく、ヘレニズム・ユダヤ教の中でも一般的であった(例えば『ソロモンの知恵』一四・二五―二六)。また、パウロは他の箇所においても同様のリストを好んで用いている(ガラ五・一九―二一、一コリ五・一〇―一一、二コリ一二・二〇、ロマ一・二九―三一、一三・一三)。ただし、このようなリストを作成・使用する人は、必ずしも注意深く、一つひとつの項目を文脈に合わせて選び出しているわけではなく、伝統的表現のまとまりを踏襲している場合が多い。
 第一コリント書では三つの悪徳のリスト(五・一〇、五・一一、六・九―一〇)がある。それは教会で起こっているとパウロが聞いている次のような行為に対する攻撃を意図している。(1)父の妻をわがものとしている(五・一―五)、(2)言い争うものを教会の外で訴える(六・一―八)、(3)娼婦と交わるものがいる(六・一二―二〇)。こういった状態を批判するために、彼は三つの悪徳のリストを注意深く用いている。つまり、最初のリストは四つの悪徳を含み、第二のリストは最初のものをすべて含んだ上で、さらに二項目(「人を悪く言う者、酒におぼれる者」)が追加され、第三のリストは第一・第二のリストのすべてを含んだ上で、さらに四項目(「姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒」)が追加されている。コリントの教会が抱えている問題の深刻さを、このようなレトリカルな重層構造によって際立たせているのである。悪徳として列挙されている項目の一つひとつに視点を定めさせることが、パウロの目的ではない。
 むしろ、ここでテーマとなっているのは、キリストによって与えられた清さであり、古い生活との明確な相違である。パウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」(五・七)と命じ、今や各人が「神の霊によって洗われ、聖なる者とされ」(六・一一)、「聖霊が宿ってくださる神殿」(六・一九)となったことを語る。そして、かつての不純さと、現在のあるべき清さとの違いを際立たせるために一連の悪徳リストが用いられているのである。
 こういった文脈の中に位置付けられていることを十分に意識した上で、問題となってきたマラコス(malakos)とアルセノコイテース(arsenokoites)という言葉の意味内容を検討したい。マラコスをどのように翻訳するかについてはかなり議論の余地がある(Boswell[1980=1990: 337ff.])。マラコスは元来「男らしくない」という程度の意味であるが、それが転じて俗語では、同性愛行為の〈受け身の〉パートナー(しばしば、それは少年であった)という意味で広く用いられていた。それに対し、アルセノコイテースは第一コリント書以前のギリシア語テキストには見当たらないので、パウロが作ったか、ヘレニスト・ユダヤ人たちが作った言葉を借用したと思われる。アルセノコイテースは、arsen(男)とkoite(ベッド)という部分から成り立っているが、その両方の言葉がセプチュアギンタのレビ記一八・二二、二〇・一三に見られるからである。つまり、パウロはユダヤ教的な同性愛禁止の神聖法集を前提にしていたと言える。いずれにせよ、アルセノコイテースをマラコスとの関係で考えるなら、おそらく、受け身的なパートナーであるマラコスに対する積極的なパートナー、つまり、自らの性的欲望を満たすために少年を金銭や権威によって手に入れる人物像を想定することができる。言うまでもないが、これらの言葉は男色の特殊な形態を指し示しており、今日の同性愛という言葉とは対応関係がない。

(結 論)
 以上取り上げてきた聖書箇所は、その細部において当然様々な解釈をなし得るが、全体として次のようにまとめることは可能であろう。
 第一に、新約聖書では同性愛への言及はごくわずかであり、しかも、それらは決して著者の関心の中心として描かれてはいない。また、いずれの言及も、特定の文献的・伝統的背景に依存する形でなされている。第二に、新約聖書中には性的指向(sexual orientation)に対応するような同性愛の概念は存在しない。聖書は常に具体的な性行為(sexual practice)として同性愛を語っている。第三に、新約聖書がはっきりと敵視しているのは、少年を対象とする男色としての同性愛であり、その非人間的な次元を問題としている。第四に、同性による性行為は一様に悪と見なされているが、なぜ悪なのかという理由はあげられていない。
 結論的に言うと、新約聖書が問題としている同性愛と、今日のわれわれが考える同性愛とはまったく異なる。すなわち、新約聖書の特定箇所から、今日の同性愛問題全般に対し有効な指示を引き出すことは不可能である。

【文献】
小原克博「新約聖書の性倫理――テストケースとしての同性愛」『福音と世界』1998年10月号 新教出版

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