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人生の扉を開いた映画との出会い

いつかは書きたいと長年思っていたが、やっと書く機会を得た。
私が映画ファンになったのは1977年。中学2年生の時だ。
当時、同級生たちは色気づき、映画を観る人が周りに増えた。
私はと言えば、東映まんがまつりに行くくらいの普通の子供だった。
流石に映画を観る者は不良という時代は過ぎ去っていた。
そんな時、『大陸横断超特急』と言う映画が封切られた。

5月。父と一緒に土曜日の夕方、広島の宝塚劇場という地元の一流館に行った。昔は地方ではロードショーでも2本立て興行が普通だった。1本目のよくわからない映画を観て、いよいよ『大陸横断超特急』の上映が始まった。リズムのいい場面展開に一緒に旅立つような気持ちになった。

LAからシカゴに3日かけて向かうシルバーストリーク号に乗り込んだ主人公は道中恋をして、殺人事件に巻き込まれ、列車から3度も放り出される。この映画はロマンチックコメディーだ。
監督は『ある愛の詩』のアーサー・ヒラー。職人芸が光るが、その当時はそんなこと知らなかった。美しい音楽を書いたのはヘンリー・マンシーニ。のちに、大好きな映画音楽家になって彼の曲をたくさん聴くようになった。

クライマックスは機関士を失って暴走するシルバーストリーク号がシカゴ駅に激突する場面だ。今ならCGでいくらでも作られるが、当時は実写で作られた。この映画も、ロッキード社の格納庫に原寸大のシカゴ駅のセットを組み、機関車を突入させた。とても危険な撮影だったと思う。

映画が終わり、土曜日の夜の街に出ると、街が輝いていた。
この日以降、年間数百本を観る映画ファンになり、さらには映画界に入り映画作り手になった。ただ、病気と才能の欠如で映画界から逃げ出した。

もし、この『大陸横断超特急』が公開されなかったら私は映画ファンになっていなかっただろう。そうなると、人生、実につまらないものだったと思う。

今、スマートフォン一つで誰でも映像作品を作れる時代になった。私も一度も二度も諦めた夢をもう一度追ってみようと思う。


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