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19世紀の空気が残る パリのパッサージュ

こちらのマガジンでは、フランスの観光に関する記事を投稿してまいります。観光地紹介や、観光関連雑学などをテーマにしたいと思っております。

今回は、首都パリのパッサージュを取り上げます。正直なところ、初めてパリに来られる方には、積極的におすすめしない場所かもしれません。それは魅力的ではない、ということではないのですが、やはり初めてパリを訪れた方は、他にも多数訪問したい場所、すべき場所があるかと思います。ルーブル美術館やオルセー美術館、オペラ座や凱旋門、シャンゼリゼ通り、そしてエッフェル塔。パリは世界一と言っても過言ではない観光地ですので、見どころは無限大でしょう。

しかし、パリはよく目にする観光地だけが魅力ではありません。知れば知るほど、その魅力を発見できる懐の深い街です。今回紹介するパッサージュは、そんな渋みのある場所といえるでしょう。

そもそも、パッサージュとは何かというところからスタートしなければなりませんが、フランス語で、パッサージュ(Passage)を辞書で調べると、

1・通過、通行、横断、また人の往来、人通り
2・通路、通り道、アーケード、小路、横丁、廊下
3・(文章,音楽の)一節;(映画の)シーン

などと出てきますが、ここで紹介するパッサージュとは「2」の「道的」なものが当てはまります。

抜け道、通り道、小路などは、すべてパッサージュと呼べるのですが、パリのパッサージュと呼ぶときには下記のものがイメージされます。

1・19世紀(ごく一部は18世紀末)に作られた通り道
2・道と道を結び、自動車が通らない歩行者専用通路。また私道ではなく公道。
3・天井の一部がガラス等透明な素材で覆われていて、空が見える

つまり道なのですが、イメージしてもらうとわかりやすいのは日本でも駅の近くなどに設置されていることが多いアーケード街です。左右に商店がひしめき、天井がガラスで覆われていて賑やかな商店街などがあるかと思いますが、大まかなイメージはこのアーケード街を想像していただけると大差はないと思います。

適訳を当てる場合、このようなパッサージュは、パッサージュ・クヴェール(Passage couvert)、つまり、「覆われたパッサージュ」と呼ばれますが、ここでは単純にパッサージュと呼ぶことにいたします。

天井をガラス屋根で覆われた典型的なパッサージュ
(写真はパッサージュ・ヴェルドー)

「なるほど、パッサージュというのは、要するに日本でいうアーケード街みたいなものですね」

そう言われると、「いや、見た目は確かにそうなんですけど、でも全然違うんですよ」と言いたくなるのがパッサージュ

アーケード街とは違う、独特の空気感がパッサージュにはあります。言うならば、19世紀のパリの空気感をそのまま残しているのがパッサージュと言えるかもしれません。

現存するパリのパッサージュで最古にあたるものは、18世紀末に建造が始まっています。フランス革命(1789年)が起こってからすぐという時代のものです。この時代にできたパッサージュはすでに出来上がってから200年以上の歴史を紡いでいるということになります。

とはいえ、当時のパッサージュも現在と役割は大きく変わっていません。つまり道と道をつなぐ通り道として機能し、その両側に商店が立ち並んでいるというものです。パッサージュ盛期には、パリの最先端ショッピング地区となっていたのです。これには多数の理由が重なっているのですが、まず、わかりやすい理由としては、屋根があることが挙げられます。つまり雨の日にも、天候を気にすることなくショッピングができるというわけです。

この理由としては、パッサージュ以前にも同様の機能を持つ場所はありました。例えば、イタリアのトリノが有名ですが、ポルティコと呼ばれる屋根付き回廊です。トリノ市内には今でも長いポルティコが残っていますが、パリにもこれに似た屋根付き回廊があります。中心に位置するパレ・ロワイヤル(Palais Royal)です。

現在では、パレ・ロワイヤル(王宮)と呼ばれている建物ですが、もともとは宰相リシュリュー枢機卿が建てた枢機卿宮殿でした。リシュリューの死後、邸宅を王家に遺贈したため、以後、王室の所有となり、パレ・ロワイヤル(王宮)となったわけですが、ルイ14世はヴェルサイユに新宮殿を建造したため、ここには、弟のオルレアン公が住むことになり、以後、オルレアン家の代々の当主がす住むことになります。

このオルレアン家の5代目当主、フィリップ・ドルレアンが、借金の返済に困り、パレ・ロワイヤルの売却を検討していた際に、当時パリで人気を博していたアーケード式の商店街にインスピレーションを受け、このパレ・ロワイヤルに豪華な回廊式商店街を建造することを思いつきます。こうして、1786年にパレ・ロワイヤル商店街が開業し、すぐに大人気の盛り場となりました。これがパリのパッサージュ誕生のきっかけになったといわれています。

パリの中心に建つパレ・ロワイヤル

さて、そんな中18世紀末のパリは、といえば、フランス革命後の混乱期でもありました。また、町のつくりは今のように整然とした町ではありません。

例えば、今のパリの地図を見ると、その道路構造は非常に美しいことがわかると思います。その典型はオペラ・ガルニエでしょう。オペラ・ガルニエを背に、まっすぐにオペラ大通りが伸び、ルーブル美術館へと続いています。このオペラ大通りと交わる形で、カピュシーヌ大通りとイタリアン大通りが直線に伸び、西はマドレーヌ広場、東はオスマン大通り(グラン・ブールヴァール)へとつながっています。当時のパリは、こんなに美しい街づくりが成されていたわけではありません。パリが今の形になったのは、ウージェーヌ・オスマンによって1853年から始まったパリ大改造計画の後です。つまり、革命後のこの時期、パリは、まだまだ雑多に建物が建てられ、不便な面も多かったのです。その最たるものは、大通りと大通りを結ぶ、小道がなかったことです。

似たような気持ちを日本の大通りを徒歩で散策しているときにも感じることがあります。片道3車線ほどの大通りで、道を渡ってしまえば目的の向こう側へ渡れるのに、車通りが多く、そもそも歩行者の道路横断が禁じられていて渡れない。右を見れば、だいぶ先に信号があり、左を向くと、こちらもかなり先までいかないと信号がない。とはいえ、信号まで行って道路を渡り、またUターンするしかないな、という状況に「面倒くさいなぁ」と感じた方もいらっしゃるかと思います。

当時のパリでも、同じような現象が起こっていました。多くの建物が連なっている大通りが横に走っていますが、縦に伸びる道がどこまで行ってもなく、かなり先まで歩いてぐるりと回りこまないと目的地へ行くことができない、という場所が町中に多く存在していたのです。ここに目を付けた投資家たちは、パレ・ロワイヤル商店街の賑わいからインスピレーションを受け、二つの道をつなぐ「パッサージュ」つまり「通り道」を作り、そこを商店街にすることを思いつきます。

現存するもので、最古のものとしては、パッサージュ・デュ・ケールと、パッサージュ・デ・パノラマがあり、この二つが最古のパッサージュと言えるでしょう。

エジプト風のレリーフが特徴のパッサージュ・デュ・ケールは現存する最古のパッサージュ
(ケール(Caire)は、フランス語で、「カイロ」を意味します。)

パッサージュができあがると、すぐに多くの人が利用し、賑わい始めます。その理由は非常に単純明快なものです。

1・遠回りをせずに、目的地まで行くことができる通り道は非常に便利であった。
2・外の光が入ってくるが、ガラス屋根で雨をしのぐことができ、天候を気にせずショッピングをすることができた。
3・ガラス屋根や鉄を使った装飾など、当時最先端のデザインが施されたお洒落なスポットであった。

この後、パリではパッサージュ建設ラッシュが起きます。当時、最も栄えていた地区に多くのパッサージュが建設されましたが、当時商業の中心地であったグラン・ブールヴァール(現オスマン大通り)とパレ・ロワイヤルの近辺には、前述のパッサージュ・デ・パノラマのほか、ギャルリー・ヴィヴィエンヌやギャルリー・コルベール、パッサージュ・ショワズールなどが作られます。また、都市間の大型馬車停車場の近くに作られたギャルリー・ヴェロ・ドダなどが作られて、発展します。

パレ・ロワイヤルの北に開かれた、ギャルリー・ヴィヴィエンヌ

1830年代に7月革命が起きると、国王ルイ・フィリップが発した賭博禁止令と娼婦追放令によって、パレ・ロワイヤル界隈が急速に衰退。また、資本一極集中を招き、サン・ドニ地区も衰退したため、商業地区はグラン・ブールヴァールに集まるようになります。このため、さらに発展するパッサージュと衰退するパッサージュの二極化が起きます。

パレ・ロワイヤルやサン・ドニ地区のパッサージュ(ギャルリー・ヴィヴィエンヌ、ギャルリー・コルベール、パッサージュ・デュ・ケール、ギャルリー・ヴェロ・ドダ)などは衰退の一途をたどり、逆に、グラン・ブールヴァールのパッサージュ(パッサージュ・デ・パノラマ)はさらに発展をし、パッサージュ・ジョフロワやパッサージュ・ヴェルドーなど新しいパッサージュも建てられるようになります。つまり、商業地区とリンクするパッサージュは商業地区の盛衰と運命を共にし、1830年代以降は発展するパッサージュと衰退するパッサージュが顕著となります。

しかし、このパッサージュ・ブームもついに終焉を迎える時がやってきます。1850年代です。これは今の私たちにとっては、当たり前のことかもしれませんが、当時としては非常に画期的かつ便利な革命とも言えるものでした。

パッサージュが人気であった理由の一つに、「天候に左右されず、落ち着いて、様々な商品のショッピングができる」というものがありました。今日、上記の条件を満たすために、私たちはどこへ行くでしょう。そう、デパート(百貨店)です。しかし、当時はデパートというものは存在していなかったため、パッサージュは非常に便利だったわけです。しかし、1852年、パリ初、つまりフランス初、そして、世界初のデパート、「ボン・マルシェ」が左岸に完成します。新しいショッピングの形が出来上がると、民衆の足は一気にデパートへ向かいます。

世界初のデパート(百貨店)としてオープンした「ボン・マルシェ」

次に、1853年から、オスマンによるパリ大改造計画による新しい街づくりが始まります。この都市改造計画によってこれまで不便だった大通りから大通りへの移動の不便さが解消されます。パッサージュに人が集まり、人が通る理由の一つに、「大通り間の移動が便利である」というものがありました。しかし、以後、パッサージュを通らなくても、移動に不便がなくなったため、パッサージュへの人通りはどんどんと減っていきます。

それでも、グラン・ブールヴァール地区が、商業の中心であり続けた時期は、そもそも周りに人が多くいたので、耐え忍ぶことができましたが、逆風は吹きやみません。

左岸のボン・マルシェに引き続き、右岸にもデパートが開業します。1865年には、デパート「プランタン」が開業。そして、1875年には、オスマンのパリ大改造計画の象徴ともいえるオペラ・ガルニエが完成。現在、フランスの百貨店の代表格でもあるギャルリー・ラファイエットのオペラ本店も、1912年に開業します。

今やパリのシンボルの一つとなったオペラ・ガルニエ

つまり、商業の中心がグラン・ブールヴァール地区から西のオペラ地区へ移動をしていったわけです。高級ブティックや宝飾店などは、ヴァンドーム広場やサン・トノレ通りに集まるようになり、これでパッサージュの活気とブームは完全に消え去ってしまうことになりました。

このパッサージュ人気が完全に衰退してからすでに100年以上の月日が経ちました。もちろん、いくつかのパッサージュは取り壊され、消滅してしまったものも多いです。しかし、少なくない数のパッサージュがいまだに現役で残っています。

人の集まらない場所にあるデパートであれば、間違いなく完全撤退、解体という運命であったでしょう。しかし、パッサージュは生き残ったのです。それはパッサージュがその名の通り、「パッサージュ(通り道)」であったからでしょう。ただ、そこを通る、というだけではありますが、パッサージュはその役割を果たし、地域の人々はパッサージュを利用していたのです。買い物をしない人はデパートには入りません。しかし、買い物をしない人も、パッサージュは通ったのです。

このように耐えに耐えたパッサージュに20世紀後半から徐々に光が差し込みます。ギャルリー・コルベールがフランス国立図書館の分館に指定され、その近くにあるギャルリー・ヴィヴィエンヌが美しく改装され、再びモードの発信地となりました。そして、レトロ・モダンの流行もあり、保存状態のよかったパッサージュ・ジョフロワやパッサージュ・デ・パノラマが再注目され始めると、にわかにパッサージュ・ブームが再燃し、いくつかのパッサージュは現在でも人気のある観光スポットとなったのです。

ここからは、私が巡ったいくつかのおすすめパッサージュをご紹介します。


1・ギャルリー・ヴィヴィエンヌ(Galerie Vivienne)

おそらくパリのパッサージュを紹介する際に、最も紹介されることが多いパッサージュ。理由は非常に明快で、このパッサージュはとにかく美しいのです。ギャルリー・ヴィヴィエンヌは改装されているとはいえ、床を彩る美しいモザイクは天井からの光でいつも美しく、通行人の目を潤してくれます。また、パレ・ロワイヤル側の入り口から入ると、通路の前に開けた空間があり、訪問者を出迎えてくれます。これはまるで劇場のエントランスのような高級感があり、このパッサージュにはいったゲストは高揚感を感じるような造りになっています。まっすぐに通路を進むと、鍵型に曲がっている部分があり、ここに古本屋がありますが、時が止まったかのようなレトロな雰囲気を持っています。全体的に現代的な要素も感じるパッサージュですが、このようなレトロなお店が現役で残っていることがパッサージュの魅力といえるでしょう。

2・パッサージュ・ジョフロワ(Passage Jouffroy)

現存するパッサージュで、どこがお勧めですか、と聞かれたなら、私は前述のヴィヴィエンヌか、このジョフロワを選ぶでしょう。このパッサージュの魅力は、「ザ・パッサージュ」といった雰囲気が感じられること。グラン・ブールヴァールにあるパッサージュですが、建造は、1847年とかなり遅い部類に入ります。対面に後述するパッサージュ・デ・パノラマがありますが、こちらと比べて約50年も遅れて建設されたパッサージュです。そのため、黎明期のパッサージュよりも建築的に発展しており、通路も広く取られ、当初から鉄枠を使ったガラス屋根が使われています。比較的広く取られたガラス屋根から光をふんだんに取り入れることができているので、パッサージュ内も明るい印象です。その後、パッサージュ・ブームの衰退に伴い、パッサージュ・ジョフロワも衰退をしていきますが、今でも、当時のレトロな雰囲気や適度に廃れた雰囲気というパッサージュらしさを残しながらも、両脇には雰囲気の良い商店が軒を連ねていて、観光客がショッピングや散策で訪れても楽しむことができます。

パッサージュ・ジョフロワでは、観光客でにぎわうサロン・ド・テ「トゥール・デ・デリス(ル・ヴァランタン)」というお店があり、時間があればこういった場所でひと息ついてパッサージュの魅力に浸ってみたいものです。グラン・ブールヴァールからまっすぐ進むと小さなホテル「ホテル・ショパン」がパッサージュ内にあります。こじんまりとしたホテルですが、一泊くらい、こんなホテルで過ごしてみたいな、と思うような魅力のあるホテルです。そのすぐ横には、グレヴァン蝋人形館がありますので、ここの見学を兼ねて訪ねてみてもよいかもしれません。

ホテル・ショパンは、グレヴァン蝋人形館のすぐ横に位置しています。

3・パッサージュ・デ・パノラマ(Passage des Panoramas)

パッサージュ・ジョフロワから道を挟んで対面にあるパッサージュ。パッサージュ黎明期に建造された非常に古いパッサージュで、ガラス屋根の骨組みが木製から鉄製に代わるなどパッサージュ時代での修復はされているものの、このパッサージュも当時の雰囲気をよく残しています。前述のジョフロワと比べると、やはり造りが単調で、かつ通路が狭いのが特徴。この狭い通路に多くのお店が軒を連ね、レストランなどは、この狭い通路にさらにテーブルを配置しているので、人とすれ違うのもやっとというほどなのですが、それもこのパッサージュの特徴とも言えるかもしれません。

なお、現在では、閉店し、移転していますが、日本人シェフで、ミシュラン・ガイドで2つ星を獲得したレストラン「Passage 53」があったのは、こんな狭い路地であるパッサージュ・デ・パノラマ内。店名はこのレストランの住所から付けられており、こんな廃れて、よどんだ空気ともいえる古いパッサージュの中で、日本人のシェフが絶品のフランス料理を作っていたというのも驚きです。

4・ギャルリー・コルベール(Galerie Colbert)

最初にご紹介した、ギャルリー・ヴィヴィエンヌのすぐ横に位置するパッサージュですが、こちらは現在、国立図書館の分館となっているため、他のパッサージュと少し毛色が異なります。入口で持ち物検査があり、中に入ると、がらんとしています。と言っても、それもそのはずで中は国立図書館となっていますので、ここにはかつてのような商店などはありません。ですから、現在でもお買い物に訪れている客はいないため、非常に静かなパッサージュとなっています。この国立図書館分館となった際に内部が改装されていますが、昔の姿を忠実に表現したデザインとなっていますので、雰囲気としては損なわれていません。しかし、お隣のギャルリー・ヴィヴィンヌと比べると当時からあまり人気のなかったパッサージュであり、パレ・ロワイヤルとグラン・ブールヴァールの間という抜群の立地を誇りながらも、隣のギャルリー・ヴィヴィエンヌに客を取られてしまうのか、当時から人通りは少なかったようです。中央の角で直角に曲がる部分があり、ここが広々とした広間になっています。天井には大きなガラス屋根が付けられ、壁の装飾もエレガントで素敵ではあるのですが、どことなくすっきりしすぎているのか、冷たい印象があり、当時から静かだったパッサージュは、今でも図書館らしく静かな空間として生き続けています。

5・ギャルリー・ヴェロ・ドダ(Galerie Velo-Dodat)

レ・アル地区とパレ・ロワイヤルの中間にあり、当時は乗合馬車の停留所も近くにあるという抜群の立地条件に建てられたパッサージュ。しかし、パッサージュの衰退に伴い、その勢いは急速に衰え、その後復活することはありませんでした。

このパッサージュ、個人的にはかなり好きなパッサージュの一つです。とはいえ、ここは相当廃れたパッサージュで、パッサージュ内でも、元気に営業をしているお店が非常に少ないのです。しかし、ここはレトロ・ラグジュアリーな雰囲気が感じられるのがとても良いと思っています。

現代の煌びやかな豪華絢爛さではないのですが、高級感のある入口から中に入ると、床は黒と白のタイルを敷き詰め、天井はガラス屋根がない部分には美しい天井画が描かれています。両脇の壁には、鏡を使った装飾がされていて、さらにはガス灯でパッサージュ全体をライトアップしています。当時としてはさながら高級ショッピング・ストリートのようになっていたのだろうなと感じます。このパッサージュ、現在でも夜に訪れると、このガス灯(現在では電気となっている)が灯っていて、昼も夜も19世紀の雰囲気が色濃く残っています。夜のパッサージュをガス灯が照らしている様子は、当時と変わっていないのでしょうが、悲しいかな、現在では、人通りはほとんどありません。

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