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勝利を知らせる鐘が鳴る町 カルカッソンヌ

時は7~8世紀頃、中世の南フランスでのお話です。この時代のフランスはどんな時代かと言うと、ローマ教皇の庇護うけて発展したフランク王国のメロヴィング朝が、カール・マルテルの治下、発展をした時代でした。そして、これを引き継いだカロリング朝(751年~)がさらに国を発展させていきます。もちろん、今のフランスと当時のフランク王国の領土は異なっています。

そして、この時代、西欧世界として大きな事件は、現スペインのイベリア半島で起こります。元々は中近東から流れてきたアラブ人たちが中近東から北アフリカへと移動し、さらにジブラルタル海峡を越えてイベリア半島へ入ってきたのです。イベリア半島に後ウマイヤ朝が発足したのは756年ですが、もっと以前にイベリア半島またはヨーロッパ大陸に入ってきたことは明らかです。

イスラムの人々は、アフリカ大陸に住んでいたベルベル人に歓迎され、彼らと協力して後ウマイヤ朝を築きあげるのですが、さきほど記載した通り、後ウマイヤ朝発足前からイスラムの人々はヨーロッパ世界に進出していました。この最も有名な事件は732年(つまり後ウマイヤ朝発足以前)に起こります。世界史の教科書にもよくでてくるので、聞いたことのある方も多いでしょう。

732年「トゥール・ポワティエ間の戦い」です。

『トゥール・ポワティエ間の戦い』ヴェルサイユ宮殿美術館所蔵

この戦いはイベリア半島に進出してきたイスラム勢力がピレネー山脈を越え、フランスへとなだれ込んできたところを、カール・マルテルが率いるフランク王国軍が跳ね返し、再度ピレネー山脈の向こう側までイスラム勢力を追いやった戦いです。

結果から言えば、フランク王国は戦争に勝ったわけですが、これは、この時代にはよくある国同士の戦争のような感じがします。しかし、この戦いがこれほどまでに重要視されるのは、ただフランク王国が戦争に勝ったというだけではなく、「キリスト教世界が、イスラム教世界の侵攻を追い返し、キリスト教世界を守った」という大きな意味合いがあります。この戦いを勝利に導いたとされるのが宮宰であったフランク王国カロリング家のカール・マルテル。この戦いの勝利でカロリング家の実権が確立され、カール・マルテルの息子、ピピン3世(小ピピン)の時代にカロリング朝が開かれていきます。

さて、このような時代背景であったわけですが、要するに現在スペインの国境に近いあたりは、当時フランク王国の領土ではなく、すでにイスラム教徒たちが住んでいた地域も多くあったということです。そして、フランク王国の権力者はトゥール・ポワティエ間の戦いで実験を握ったカール・マルテル、その息子でカロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)に次いで、ピピン3世の息子、カール大帝(シャルルマーニュ)へと受け継がれていきます。彼はフランク王国の領土拡大のため、南へ南へとイスラム教徒を駆逐しながら、領土を拡大していった時代でした。

さて、本題です。

これは、とあるお城の物語。現フランス南部に位置するこの街は、アラブ人の一派ムーア人たちが支配していました。しかし、どんどんと勢力を拡大するカール大帝の軍はついにこの街をも侵略しようとその手が伸びてきます。一気に城を取り囲んでしまうフランク王国軍。ムーア人たちは城の中に立てこもり、篭城戦が行われます。

ジワジワと押され劣勢を強いられるムーア人軍。丘の上に建てられたお城は完全に包囲され、食料、水がどんどんとなくなっていきます。時の城主はフランク王国軍との戦いで戦死し、ムーア人軍は敗戦を覚悟しますが、城主の妻カルカス王妃は、頭を使ってフランク王国軍を牽制します。その一つに帽子のトリックが知られています。どんどん数が減っていく兵士たちに毎回違う色の帽子を被って城を守らせたため、フランク軍は「うむ、まだ敵の兵力は少なくない」と思い、突入を遅らせたと言われています。

しかし、食料や水がなくなるのは時間の問題。すでに残っている食料はブタ一頭と小麦一袋しか残っていませんでした。ここでカルカス王妃は最後の賭けにでます。唯一残ったブタに、唯一の小麦一袋を全部食べさせて小麦でお腹が一杯になったブタを城からフランク王国軍に向かってバカにしたように投げつけました。

これは「我々は、小麦一袋をブタに食べさせ、それを城から捨てるほど食料があるんだぞ」というカルカス王妃からフランク軍に対するメッセージだったのです。もちろん、それは嘘で、実際にこれでムーア人たちの食料は完全になくなってしまいました。

しかし、フランク王国軍はまんまとカルカスの術中にはまり「こんなに待っているのに、相手はまだこんなに食料があるのでは、勝負にならない。ここは一旦退こう」と篭城を解き、退散したと言われています。

ある意味で勝利を収めたムーア人たち、フランク王国軍を退散させたカルカス王妃は勝利の鐘の音を鳴らし、民にフランク王国軍を追い払ったことを知らせます。これが、この町の名前の由来になりました。

民は言いました。「カルカス王妃が鐘を鳴らしている!カルカス王妃が鐘を鳴らしている!」

これはフランス語だと

「Carcas sonne!! Carcas sonne !!(カルカス・ソンヌ!カルカス・ソンヌ!)」

そう、フランク王国軍を追い払ったカルカス王妃の名を関するこの町は、現在、世界遺産の二重城壁都市として知られているカルカッソンヌ(Carcassonne)です。

なんとも華麗なストーリーです。現存しているカルカッソンヌの二重城壁はもっと後の時代に作られたものですが、あの堅牢な城壁都市にぴったりなエピソードのように感じます。

二重城壁都市カルカッソンヌ ©Paul Palau

このストーリー、現地では比較的よく知られているお話なのですが、後から作られた話というのが有力です。というのは、この逸話には重大な欠陥があるのです。

「この部分が明らかにおかしい」という内容になってしまっているのです。皆様はお気づきになりましたでしょうか
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そうお城に篭城していたのはアラブ人の一派、ムーア人です。つまり、彼らの宗教はイスラム教であったはずなのです。イスラム教ということは
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そう、豚肉を食べることを禁じられているイスラム教徒が、ブタを食料として持っているということはあり得ないのです。そのため、この話は事実ではないだろうといわれています。しかし、街の名の由来としてはなかなか面白いお話ですね。

とはいえ、このカルカス王妃のお話は、カルカッソンヌの始まりとして非常によく知られており、現地では、カルカッソンヌの旧市街(シテ)へのメイン・ゲートとなっているナルボンヌ門にカルカス王妃が彫られたレリーフが建てられています。

ナルボンヌ門に置かれたカルカス王妃のレリーフ

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