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日々の事41

VRChat

可愛いおじさんに救われる世界がある。

昨日ツイのフォロワとまたVRchatやって、確信したのは、バ美肉おじさんは「救い」だということ。目の前に可愛いアバターがいれば、中身がおじさんでも関係なく可愛いと思える。何故なら、そこには美少女の実存があるからだ。
かつてフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう言った。

l'existence précède l'essence(実存は本質に先立つ

すなわち、ある種の性質(例えば人間性など)というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何かを意味するものではない。つまり、初めに空っぽの「それ」があり、本質的な価値および意味は後に作られていくという考え方だ(フランス哲学は複雑なのでこれ以上深入りしない)。
VRChatで美少女アバターを身にまとうおじさんは、現実には美少女では無い。しかし確かに「美少女」である。そうした矛盾に直面した以上、自分はここに何を見出しているのかを問わなければならない。
その答えはやはり『「美少女」とは何を意味するのか?』を再考する他に見いだせない。フィクションなどで多用されるこの言葉の本質はどこにあるのか?
これには多くのことが考えられるが、論じたところで各々の心の中に答えがあるはずなので、ここでは問題提起に留めたい。何に美少女性を見ているのか、自分の眼差しの先のどのようなフィルターを通して「美少女」を認識しているのか、考えてみてほしい。

ともあれ、自分がVRChatで、「美少女」を観測したという事実そのものだ。例えが悪いが、まるで幽霊を信じていてある心霊スポットで実際に幽霊を見たような感覚に近い。バーチャルの世界に「美少女」はいる。

VR機器が今手元に無いが、もし買ってダイブすればもう現世に変える必要を失うのではないかとも思う。機器についてはお金が無いから買えないわけではない。買って体験することをあえて控えている。なぜなら、今まで生きてきた中で、VRを体験することは間違いなく強烈な刺激になるはずで、そういう得難いものはとっておきの瞬間まで保留しておきたいのだ。とは言え、もう買ってしまいそうではある。ギリギリのところで踏みとどまっている。

今日はここまで。

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