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日々の事34

思ったこと

バカな人を見て笑う」という行為を聞くと、大抵の人は悪いこと、下品なこと、だと考えるだろう。他人をバカにするなんて、と。
ただ、テレビではバラエティー番組もおバカちゃん大集合的な企画をしていたり、おバカな芸能人だけを集めてクイズ番組をしていたり、バカな様子(言動や間違った回答)を見て笑うこと良しとしているし世間的に許容されている節もある(近年ではこの手の番組は最盛期より減ったものの)。
何故バカを笑うのが許されるのか?普通に考えたらダメなことなのに、テレビならいいのか?
おそらく主眼がバカな人を文字通りバカにして貶める、ところになく、バカな行いをしていることへの「笑い」にあることが、許容性に繋がっているのだろう。バカな行いの主体から許された「笑い」。すなわち、バカだと言われる側がそもそも「バカにして笑ってくれ」と許していることで、バカにする側は罪悪感を抱かずに笑える。
でも「それは本当に許されることなのだろうか?」と自分は思う。

例えば、イジメについて上記の考え方を応用するなら、イジメられている側がイジメる側の暴力等を許容して「どうぞイジメてください」と言えば、イジメは正当化されるだろうか。そこにあるのは客観的な許容性であり、主観は一切排されている。もし本心は「イジメてほしくない、だけど、そう言うともっと苛烈にイジメられるから言うしかない」というものなら、どうだろう。それでも「イジメてくれ」と言ってるんだから別にいい、と思うだろうか?「殴ってもいいよ」と言われてあなたは殴るだろうか?

もちろん両者には行為の態様に差がある。直接的物理的な暴力と、間接的精神的な嘲笑とでは、質的にも量的にも異なる。だが、同意によって許容され、行為が正当化されるという点では一定の同一性があると言えるだろう。

もう一歩進んで、これが例えば人種差別なら?「○○人は劣っている」という言説に対して当の○○人が「我々は劣っているから差別的言動を言われても仕方ない」と述べていれば、差別的言動は許容されるのだろうか?

こういった倫理的な矛盾が世の中には溢れていると思う。客観的には非難されるべき行為が、世間的な評価により相対的に非難のレベルが落ちる(本質的な低下は無い)ことで「これはやってもいい行いだ」と認識してしまう例は現実には案外多くあると思う。そうした歪みに対してどう考えるかは、当人次第なところがある。
相手の同意があればどんな行いであれ自分の正当性は揺るがない、本当にそう考えている?あるいは、世間が許していれば?

今日はここまで。

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