違いはどこから来るのか

知らないところへ行くときには、その前にそこで行われている義務教育の内容に触れることがそこに住んでいる人達とのやり取りを円滑にする可能性があると最近気づいた。

円滑にするというより、自分を楽にしてくれるという方が正確かもしれない。

この国の人達はよく意見の投げかけ合いをする。時にはそれが白熱し、言い争っているように見えなくもないが、一区切りすると何事も無かったかのように穏やかに話したり笑い合ったりしている。

これを以前は仲がそこまで良くないと感じたり、これが自分の身に起こると、相手に嫌われているのではないかと思う瞬間がよくあった。そして自分は切り替えがうまくできずにそれを引きずったり、周りを見ては、みんな切り替えがうまいがどうやっているんだろう。自分はなんて未熟なんだろうと考えたりする。


今日の自分を作るものは、今この瞬間までに出会い過ごしてきた環境、受けてきた教育、そしてそれに対する自分の意識や思考だが、要はこれらが私と彼らでは全く違うのだというのがわかってはおりながら理解していなかった。


この国では全ての人間は生まれながらにして自由であり、思考や意見、表現等について自由であり、誰かが自分のその自由を侵す権利も自分が他の誰かのその自由を侵す権利もないということを、教育課程でこれでもかというほど叩き込まれる。

議論の仕方についてもそうで、自分達の意見を交わす事はあっても、相手のそれに同意できれば同意し、出来なくともそれはまた相手の自由であるということで終わる。たくさんの意見を持てる事が重要で、むしろ一つの意見に絞ることはあまり好ましくない(これは独裁者を生まないようにというか、権力が一箇所に集まらないようにと考えられた結果なんだろうか)。


自分が受けてきた教育を振り返ると、いわゆるディスカッションの練習だと組を半分に分け、それぞれ話し合って出した意見を交換し合う(そして終わりには様々な意見が出たことを良しとしながらも一つの結論を求められる)というような、こちらの国とは真反対に感じる内容だった。


この二つの国の違いに気づいた時、自分の感じていた後ろめたさ、不安、そして怒りのようなものが軽くなったように感じた。

ただ違うだけなのだ。そしてそれはある程度統一させなければならないものでも、後ろめたくなるような事でも受け入れなければならないわけでもなく、ああこういう理由で違う意見を持っているんだなと終わりにすればいいだけ。なんて単純で、なんて楽なんだろう。


この国に来てから数年経つが、自分の居心地の悪さや、自分が“うまくやれない”と感じていたことに一つ理由を、解決策を見つけたような気がしてホッとすると同時にもっと早くに気づいていたら結果は違ったかもしれないと感じる事がいくつかある。


こちらの人が、意識せずとも実行出来ていて私に出来ていないと感じていたのは事実であるが、それは私が劣っているからではなく、単純に教育環境や、そこにおいてまるで呼吸をするかのように身に着けてきたものが違うだけなのだ。時にそれは私の全く想像のつかないものだったり、私が常識として教えられて来たものとは逆だったりする。


いわゆる“同じ文化圏の国”に住んでいても、家庭によってそれぞれルールや文化が違うのだから、自分や相手を責めることなく、ただ違うのだという事実を受け止めて、そういうものなのだと前に進むことが必要なのかもしれない。

その違いがどこから来るものなのかは、ほんの少し余裕が出来たときに相手とあれこれ話し合ってみるのもありだな。

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