量産型名選手がなかなか成功しない問題についての想像による考察

久しぶりに投稿したと思ったらもうハムの話題から離れてしまって恐縮なんですが。本日は表題の通りの話題です。量産型名選手とは例えば「埼玉のダルビッシュ(中村勝)」「薩摩のイチロー(川崎宗則)」などに代表される、すでに成功した選手に擬えられる選手たちのこととして捉えてください。
今回のこの話題は僕のTwitter(@jomondokiyayoi1)の質問箱に寄せられた、「イチローの打撃フォームを模倣した選手はなぜ現れないのか」という質問に対する考察を深めた結果できたものです。ちょっと主語が大きくなったのですが…。

さて、日本史上最高のヒットメーカーは誰だと問われてイチローをあげない日本人はまずいないと思われますが、では決して難しそうには思えないイチローの打撃フォームの模倣をして活躍する選手がなぜ産まれ得ないのか。
皆さんちょっと思い出してみてください、世の中の野球少年野球中年たちがこぞってモノマネする野球選手の打撃フォーム。僕は元横浜の種田仁さんだと思うんですがどうですか?恐らく正解ではないかと想像します。察しのいい人はここで気づくと思います。そう、「特徴が強い」んですよ。元近鉄の中村紀洋さんもそう、元西武のカブレラ選手もそう。イチローの場合は打撃に入る前の左手を右肩に添えるシーンが有名ですけど、実際にスイングするとなると途端にイメージが湧かなくなりませんか?種田さんや中村さん、カブレラさんなんかはフォロースルーまで再現できる人、多いのでは。
まあ、それは単なるイメージだとしても、イチローのスイングというのは僕は極々シンプルなものだと思います。だからこそ模倣がすこく難しい。

人の身体には個々人によって差があり、クセがあります。模倣の入り口はクセです。種田さんのあのガニ股、すごい真似しやすい。でもイチローのスイングにはクセらしいクセがない。一見すると普通のスイングなんですね。若かりし頃には「振り子打法」なんて言われる打法だったこともありますが、時が経つに連れより癖のないシンプルなスイングに収斂していったイメージがあります。
僕はその癖のなさこそがイチローがイチローたる所以なのではないかと思うのです。ルーティーン、という言葉はイチローを評するときによく使われる言葉ですが、イチローは打席どころか1日の動きまでも同じように決まった動作をしてその正確性を高めていくことで、ヒットを打つということを自分の日常に組み込んで、「当たり前」の事象としました。その過程で余分なものを削ぎ落として、シンプルな「打撃」の動作のみを自分の身に残したのではないでしょうか。

やあ、実のところここは確認のしようがないのですが、どうにもそう思えてならない。
仮にこの仮説が真実だとすると、イチローに残された打撃フォームの純度たるや、恐ろしいほどのものになると思うのです。
仮に普通の野球選手が模倣しようとすると、まず自分の体のクセとの戦いになります。癖のないスムーズかつ純粋な打撃フォームを習得するためには自分の体から余計な癖を除去するところから始まる。イチローの体つきを思い返してみてください。ユニフォームの上からでもわかるスマートな体型、無駄な脂肪はもちろんのこと、無駄な筋肉すら恐らく無い。必要分だけのものを身につけ、その身が出力できる能力の全てをコントロールできる範囲に…。イチロー自身にそもそも余計なクセがないように思えてきます。
イチローの模倣が難しいのはここではないでしょうか。イチローの打撃フォームというのはイチローの肉体によって作り上げられ、イチローによってイチローのために最適化されたもの。余すところなく再現しようと思えばイチローになる他ない。が、イチローになるために必要なものは何よりもその強靭な精神力。最終的に心のありようまではイチローになることなどできはしないわけで、そこに試行錯誤を加えるということは、自分の身体や心との対話になります。そうこうしているうちに気づけば模倣していたものの中から生まれるのは自分だけのものではないでしょうか。自分だけのかけらが生まれて、最終的に自分の完成形を得るに至れば、もはや模倣など必要なくなるわけです。

何故模倣をするのでしょう?少なくとも野球選手がそれを行う時、模倣というのは例外なく、成功を得るための一手段であるわけですよね。となれば、成功よりも模倣を完成させることが目的でない以上は、いずれ模倣を棄てる時が来るのは自明です。ここで表題を「量産型名選手」としたことの意味が現れます。埼玉のダルビッシュも、はじめはもしかするとダルビッシュの模倣だったかもしれませんが、自分はダルビッシュではなく中村勝だということを証明するためにダルビッシュの模倣からは抜け出した。でも結局ダルビッシュでない自分をかけらから作り上げるところでちょっとつまづいてしまった。
ここで考えたのですが、多くの量産型名選手たちが、プロ入りするときに「本当に似ていた」のなら、それは恐らく時すでに遅し、なのではないでしょうか。
あ、薩摩のイチローは本当にイチローになろうとしていた節があるのでちょっと例外かもしれませんが、模倣というのは先ほど申し上げましたように、成功の道への最初の入り口だと思うのです。自分がなりたい理想の姿を名選手の姿にかぶせて模倣し、少しでも近づこうとする。しかし、なまじ野球センスが良い選手だと本当にある程度のところまでは模倣できてしまう。しかし先述したように、フォームというのはそのオリジンによって作り上げられ、その人のために最適化されたもの。名選手であればあるほど、その習得に必要な「オリジンとしての純度」は飛躍的に上昇します。ですから、8割身に付けてしまった人が残りの2割の難度に気づく時と、6割身に付けた人が4割の難度に気づく時ではあきらかに野球人生の進み具合が変わってくる。場合によっては持っている能力が圧倒的に違っても、2割を諦めきれない人が成績を残せず、4割を諦めて自分を見つけた人の方が大成することだってありえるわけです。ですから、模倣という、自分だけの形探しの入り口で止まったままプロ入りした埼玉のダルビッシュよりも、そもそもダルビッシュとは似てないのに呼ばれていた東北のダルビッシュや浪速のダルビッシュは頭角を表すのが早かったと記憶しています。(東北はご存知大谷翔平、そもそも二刀流の方が有名でしたね。浪速は藤浪、ですが今は自分を見失っていますけど)

結局、模倣というのは手段なのであって、目的ではないのですよね。だからフォームの模倣によって大成した選手など存在しないわけです。ちなみに模倣を完成させるとモノマネ芸人が生まれます。代表例がニッチロー氏です。なんならスピードはともかくとして、構えからスイングまで似ています。ですが当然ながら150kmの速球は打てません。これが示すことを究極的に言えば、フォームの完成と打てるかどうかは関係ないんですよ。フォームというのは一人ひとりにその人だけに適したものがあるわけで、それを発見し習得した上で、そのフォームの動かし方を習熟するということを加えなければいけない。形だけできたところで画竜点睛を欠くわけです。もちろんベーシックなフォームというものにはいわゆる基礎基本として一定の共通点というのは見受けられますが、もしかするとそれすらも既成概念かもしれません。いつの時代か左手を上にする右打者が現れるかもしれない。


長くなったのでここまでをざっくりまとめると
・そもそもイチローはスイングのクセが極限に弱い、模倣が難しい。
・フォームというのは基本的に一人に一つ。
・模倣というのは自分だけの形を見つけるための手段である
・形だけ真似ても動かし方を知らねば意味がない
ということで最後となりました。

<結論>
『ただでさえ模倣の難しいイチローのフォームを完璧に真似たところで本人でもないのにそれを完璧に使いこなすのは無理。そもそも模倣というのは手段であって目的ではないのだから、模倣をやる中から自分だけのものをサッサと見つけてそっちにシフトしていったやつの方が大成する。いつまでも模倣の完成にこだわる奴は伸びない。実績を残す奴は必ず自分だけのメソッドを創り上げて実践しているもんだ』。

だらだらとした締まりのない文にお付き合いいただきありがとうございました。

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