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日本人の語彙力低下に思うこと
よく、文章はわかりやすく簡潔に、難しい言葉をできるだけ避けよ、といわれます。特にビジネスの場面なんかでは、不要な情報、ムダな表現・装飾は削り、要点のみ押さえたシンプルなものがいいとされます。確かにそのほうが伝わりやすいです。長いメールはとかく嫌われるものですし、わたしも要点があっちこっちに飛んで、何がいいたいのか不明瞭な企画書はチョットご勘弁被りたい。
だってね。あえてイヤミな言い方をしますけど許してくださいませね。
人生の中で、格調高い文章や表現豊かな文芸作品なんかをたくさん読んで、読解力を磨いてきたり、集中力を切らさない訓練してきた人ばかりではありませんもの。せっかちで物事のポイントだけを欲する人や、余計なことが書かれていると簡単にそこに振り回されちゃって、曲解、誤解しちゃう人がいるんですもの。
アメリカで売れているベストセラー小説は、実は中高生レベルの英語力でなんとなく読めちゃうものばかりだといいます。ヤングアダルトやティーンエイジャーに刺さるのがヒットの要因。語彙が難しいとそれだけでアウトらしいっス。
日本でも、ライトノベルというジャンルが活況です。ライトノベルは設定がしっかり煮詰められ、ストーリー展開も非常に凝ったりしているのでわたしも隠れファンなのですけれど。文章構成や文体、表現自体はいたってシンプル。アニメやゲームといったポップカルチャーにそこそこ親しんでいれば、一見手強そうに思えるワードやシチュエーションにも付いていくことができます。まぁ娯楽ですから、読んでいて疲れちゃうようなものだと受け容れられないんでしょうね。
こういう状況になんだかなぁと思いを致す人も多いでしょうが、とにかく個々人の好悪は、この際どっかに棄て置くとして。なんでもかんでも、わかりやすく、読みやすくという風潮はひと頃に増して進んでいるような気がします。
ただねぇ、わたしはこれが非常に気になっておりまして。時代の波に逆らうようで恐縮なのですが、ただただ読み手を慮って、甘やかして、ひたすらわかりやすさを追求しすぎる傾向に、なんともいえない危うさを感じてもいます。
日本語は、語彙が豊富な言語として知られています。
固有の大和言葉だけでなく、大陸から輸入した漢語、明治期に作られた外来事物や概念を訳した和製漢語、その後の和製英語、オノマトペ、敬語体系による活用変化など実に多彩。今なお新しい言葉が生まれています。
英語やスペイン語、フランス語の場合、最頻5,000語を覚えていれば、仮にその語で書かれた文学作品を読んだ場合、90%以上を理解できるのに対し、日本語は最頻5,000語を覚えていても理解度は80%少々にとどまるのだそうです。語彙が多いのは英語、ロシア語、次いで日本語だとされますが、やっぱり日本語は、その表現の豊かさを多くの語彙によって支えているということです。
それらを大切に扱わずして、ことさらに簡便化を重視し、メディアが読解力低下の片棒を担ぐっていうのはどうなんでしょうね。
何かを読むということは、何かを学ぼうとする心根の表れ。
何かを学ぶことは、何かをしたいがための助けをそこに求めているから。
ま、これは福沢諭吉さんの受け売りなんですが、曰く「読書は学問の術であり、学問は事業の術である」と。まさにその通りだと、わたしも思います。
こないだのNHKの大河ドラマ『光る君へ』の中で、主人公のまひろさん(紫式部)が一条天皇に接見した際、「庶民にも学問の門戸を開きたい」といったニュアンスの願望を奏上していました。だとすれば、庶民が広く知識を得て、それを実生活に応用できるよう、読み物はわかりやすく整理され、問題解決のための助けになるよう編集されていなければなりません。
しかしながらです。まひろさんの、その意気やよしとして。
本当に“そこだけ”に固執していいでしょうかという話。
難しい言葉だからと、ちょっと古風でわかりづらい言い回しだからと、あまり一般的ではない装飾だからと、なにもかも平易に均せばいいというものではありません。
グイグイ読ませるところでワザワザ小難しい熟語を使って読み手を立ち止まらせてしまうのは勿体無い悪手だとしても、難解だからという理由だけで忌避していたら、その読み手は新たな語彙を得るチャンスを逸します。
そんな風に読者を信頼せず、語彙力を狭めることばかりしていたら、読み手の感性がどんどん盲いてゆくと思いませんか?
「釈迦に説法かもしれませんが……」、「いえいえ滅相もないことです」。
こういうオシャレで知的なオトナ同士の阿吽の会話が、そのうち廃れていってしまうと思いませんか?
やがて活字メディアそのものが成り立たなくなってゆくと思いませんか?
先日ネットを眺めていましたら、「樵」という字を掲げ、「これ、なんて読むでしょうか?」といったクイズ形式の記事がありました。うちの娘に聞かれたので「キコリだよ」と答えたら「なにそれ?」と云われました。樵の読み方のみならず、樵が山で木々を伐採する人のことだとわからない若者が増えているということです。
わたしたちは、書き物を通して、もっと高次な学びの機会も提供しなきゃいけないんじゃないですかね。
読み手の皆さんもまた、読み物を通して、もっとコンビニエンスじゃないカタチで、真摯に学びを得なきゃいけないんじゃないですかね。
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