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正気の歌

『正気の歌』ってのをご存じですか?
これは〝せいきのうた〟と読みます。〝しょうきのうた〟ではありませぬ。
中国南宋時代末期の軍人であり政治家だった文天祥が編んだ詩歌。モンゴル帝国の侵攻によって捕えられ、宋の滅亡後に獄中で詠んだとされています。

往時のモンゴル帝国・第5代皇帝クビライ・カアン(チンギス・カンの孫)は、どうやら文天祥を無碍に殺したくはなかったみたいですね。そりゃあそうです。度重なるレジスタンスと、降伏勧告を跳ねつける心意気、とりわけ同胞から愛されるその人柄を高く評価していましたから。

モンゴル帝国があれだけ版図を拡げた要因の一つには、チンギス・カン以来の「イルになる(仲間になる)」という統治哲学が確実に貢献していて、敵側に優秀な為政者や将官がいたら、その方法はどうあれ、登用・重用するのが常套手段でした。
最近わたし、元寇の時代を舞台にした『ゴースト・オブ・ツシマ』というゲームをやっているんですが(今更かよっ!)、そこに出てくるモンゴル帝国も、奇しくも同時代のモンゴル帝国。架空の人物ですが、クビライの従兄弟として登場する指揮官も対馬の守護職(あ、地頭かも?)を味方に取り込もうとしていましたっけ。恫喝や慰撫を縦横に駆使して、敵さえも仲間にしてしまうのがモンゴルさんの賢いところだったんです。

しかし、文天祥は頑として首を縦に振りませんでした。やがては反乱の火種になりかねない存在だとわかり、クビライは泣く泣く死刑に処すことを決断したようです。忠臣の鑑として後世に伝わる文天祥は、日本でも高い人気がありました。『正気の歌』は幕末の志士たちに読み継がれ、藤田東湖が同じ形式で『和文天祥正気歌』と題した五言古詩を作り、尊皇派の士気を大いに高めたといいます。

天地有正氣(天地には正気があり)
雑然賦流形(混然としてカタチを持たぬままこの世界にある)
下則為河嶽(下にあっては河や山になり)
上則為日星(上にいけば日星になる)
於人曰浩然(人において正気が発揮される場合は、浩然の気という)
沛乎塞蒼冥(これらは大いに天に満ちている)
皇路當淸夷(道が清らかで太平な時は)
含和吐明庭(和やかで明るい朝廷=不正のない健全な朝廷に吐き出される)
時窮節乃見(動乱の時代になれば正気によって節義が顕れ)
一一垂丹靑(ひとつひとつ、歴史に残される)

正気の歌 一段目

『正気の歌』は、この一段目のあと、二段目、三段目、四段目へと続きます。

掻い摘んでご説明すると、正しい気というものがあまねくこの世界を包んでいて、そういった正気に寄り添い、重んじながら生きることが大切だということではないでしょうか。文天祥自身の頑とした反抗行動もそれらにつながる正しさを持っていて、ゆえに忠節を曲げることはできない。どんなにクビライさんが甘い言葉で囁きかけてきても、私の正義は死なないんだぜ、そこだけは譲れんのだよ、といった気分が窺えましょう。もし専門家の方がいて、わたしの理解が誤っていたらご教示ください。

とにかく、この、力強く、読んでいるだけでゾワゾワ〜っと背筋が泡立ってきそうな詩が、まごうことなき抵抗の詩であることだけは確かです。中国文学屈指の傑作との呼び声があるほど、多くの人々に感銘を与えてきたのも肯けます。

わたしは、陳琳の『檄文(げきぶん)』とともに、この『正気の歌』が殊の外好きでしてね。
なんだったら、謳うことによって自分を奮い立たせるためのブーストアップ効果を得るという意味では、経文や念仏を唱えるのと同じくらいのパワーがあると思っています。
作者である文天祥の、微動だにしない気概、鬼気迫る感情が込められた詩には、高名な禅僧が乾坤一擲で放つ「喝」にも似たチカラがあるのではないかってね。これは、わたしが蒐集しているパワーストーンにも通じるものがあって(またまたスピリチュアルな方向に持っていって恐縮ではありますが)、詠みあげることで周囲に張り詰めたモーメントを作りあげ、邪気を祓うことにさえ充分に用を為すのではないかとも考えています。
実はいま、神仏にまつわる創作を書いていまして。わたしは、文天祥に敬意を払いつつ、この詩歌をどこかの場面に登場させたいと目論んでいます。


言葉って、人間に〝枷〟を嵌める厄介な代物だと常々思っているんです。だって例えば「美しい」という言葉ひとつをとっても、本当はさまざまな美しさがあるわけじゃないですか。容姿の美、居住まいの美、内面から滲みだす美、妖艶な美、清廉な美と、本来はひと言で表現しがたい無数の美がありますでしょ。それらを「美しい」という一語で定義づけてしまうと、受け手は自分の頭の中の「美しい」で脳内変換してしまいます。つまりは〝型に嵌めてしまう危うさ〟が言葉にはあり、それを長きにわたって用いてきたがゆえに、人は他の動物と違って感性や感覚を鈍らせてしまっているという考え方ができます。若干、宗教的な言い方になっちまいますが、視覚や聴覚、嗅覚、触覚、味覚から得た感動や気持ちの昂りなどが、なぜか言葉としてアウトプットした途端にチープになるという現象も、これで説明できるんじゃないかと思うんですね。

だから嫌いなんですよ。PREPとか形式めいたことに拘泥し過ぎて、金太郎飴を切ったみたいな文章が量産されてしまうことが。一定の文の組み立てをあらかじめ決めてしまうと、そこに引っ張られて、絶対に選ぶ言葉や言い回しが限定されていきます。万人に広く何事かを伝えようとするばっかりに、手段に拘って自ら表現の自由度を狭め、本当に伝えたい人に、本当に伝えたい繊細な部分が届かないというジレンマに陥るのです。

でも、その一方で『正気の歌』のように、人が編み出した言葉というものの力をまざまざと見せつけてくれる作品があります。読んでいるだけで言霊を感じる文章というものはやはりあるんですね。古詩ゆえの解釈の難しさと格闘しながら、皆さんもぜひ、この歌を味わってみてはいかがでしょうか。

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