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電車移動の際は、たいていボーッとしているかスマホをいじってます。
そのスマホをいじっている時間が、独身の頃は読書の時間でした。

朝夕の通勤時は、ヤンマガやビッグコミック、たまに週刊文春とか読んでましたかね。とりあえず週刊文春一冊じっくり読み込んでおくと、仕事上でお付き合いのあるオジさんたちに話を合わせられますし、会話のネタになりますので。今の文春は読む気も失せますが。

あとは文庫本の類いでしたね。寺田寅彦の随筆、司馬遼太郎の歴史小説や紀行文、池波正太郎の時代もの、好きな本を挙げればキリがないっす。岩波文庫の青緑黄白の各ラベル、岩波といえば新書系も死ぬほど読みました。もちろん岩波以外の新書も、実用書も読みました。仕事の失敗などで酷く落ち込んじゃった時は、あえて小難しい思想書や哲学書に手を出して脳みそをイジメ抜いたり、中学時代に図書室で貪るように読み漁った早川書房の海外SFを別の翻訳家さんの作品で読み直したりもしていました。芥川賞作品はあんまり興味がなかったけど、直木賞は新しい受賞作が喧伝されるたびに単行本を買いましたっけ。支出に占める本のエンゲル係数は、当時わりと尋常じゃなかったかもしれません。

カミさんと一緒になって家が少し広くなってからは、いくつかある部屋の一つをわたし専用の書斎として分け与えてもらい、壁2面を書架にしました。読書趣味にはますます拍車がかかり、本棚にはたくさんの本が並んでいきました。

しかしながら数年前、今の住まいの購入を決めた時でしたね。引越しを前に、その一切を処分しちゃったんです。ダンボールにして50箱はくだらなかったでしょうか。記憶が曖昧ですが、どれも重すぎて持てないほどでしたから、文庫本なら1箱70〜80冊程度、郷土史書や文学全集なら1箱20冊は詰め込んでいたと思います。何度かに分けて車に積み、ブックオフに売りに出したんですが、大量の本の山を前に、店員さんにすんごいイヤな顔をされたのを思い出します。全部買い取ってもらうのに何日かかかりました。

実は、今の家の購入資金は、前の持ち家を売って拵える必要があったのです。よって、家を売りに出している間はともかく、売れたら速攻でそこを退去して、仮住まいのアパートかマンションに移る必要がありました。次の新居を探す間のディレイタイムが生じるのです。

一時的な仮住まいのため、本を置いておくだけのスペースを余分に借りる資金はありません。売れたはいいけど、その売却金から毎月の家賃分がドンドン目減りしていきます。とにかく早く新居をみつけようと、慌てて妥協して、変なところに住みたくはなかったですし、納得できる新居を探すとなると、2〜3ヵ月はかかるのを覚悟していました。実際はもっとかかったので、結果的にこの選択は間違いじゃなかったと思っています。でも、残念ながら、新しい我が家となった今の自宅には、再び手に取って読み返したいと思っても、あの本の山はないんですよね。ちょっとした古本屋さんが開けるくらいの蔵書はあったんですが。

それ以降、書店での本漁りはピタッと止み、仕事上でどうしても必要な資料でもない限り、本を買うことはなくなりました。さすがにネットを使って調べ物はするんですけど、紙の本を介したインプットはほとんどしていないです。ここ5年くらいで買った本は20冊もないんじゃないかしら。本や雑誌が売れないわけです。

「雑誌専門とはいえ、編集をなりわいにする者がそれで大丈夫?」
「文章書くんだったらそれなりのインプットがないとダメでしょ!」

そんな風にお叱りを受けるやもしれませんが、なんとかなっちゃってるんで問題ありませんでしょ。なにしろ、ここんとこアウトプットに忙しくて。毎週1〜2本は何かしらの原稿を書いてます。それに人の原稿を読んで注文を付けることも多々で、この職業にありがちな活字に対する渇えは満たされています。

事物を的確に描写したいなら、優れた表現技法が詰まった名作名著を読みまくるのが近道だとわかっているんですけどね。おそらくライター講座の講師をやられていらっしゃるような先生方も、「圧倒的な読書量が秀作を生む」といったことを仰るでしょう。ただ、散々乱読を続けてきたわたしにとって、今はかならずしも「それが本である必要はない」と思うようになってきたというだけです。ここ数年はNetflixなんぞで、むしろ映画やドキュメンタリーをたくさん観て、書きたいと心や表現したい意欲を刺激する方にウェイトを置くようになってきたかも。

もしかしたら本を読まなくなった時点で、その人の文章力の成長は止まるかもしれません。ですが、わたしは、こう思うんです。ある程度の読書体験を経て、何かを想像する(させる)ことの楽しさや、何かを表現することの素晴らしさを知ったなら、次は本の中での擬似体験でしかなかった世間のあれこれを、実際にご自身の目と耳で見聞することに注力した方が……って。

書を捨てて街へ出ようなどとは申しません。が、寺山修司が夜な夜な路地裏を徘徊したように、やはり路地裏に足を踏み入れてみなければ、その咽せるような空気や細部の様相はわかりません。不法侵入やお風呂のノゾキは犯罪ですから、絶対にやっちゃダメですが、やはり実体験に勝るものはありません。もちろん、殺人事件を精緻に描くミステリー作家さんのように、実際に経験がなくともリアルでドキドキするよなシーンは描けますよ。しかしそれとて、何らかの過去の実体験や記憶に裏打ちされた、実感や肌感から生み出されたリアリティだと思うのです。

ネットのバーチャルツアーで、どっかを旅した気分になることがあります。想像を掻き立て、いつかは行ってみたいと思うのはいい。でも、それがあくまでも「旅した気分」でしかないように、読書でわかったような気になっちゃいかんということです。

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