可処分時間言説へのギモン
それ、本当にやりますか?
エンタメ業界にいると、よく「可処分時間の奪い合い」という言説を耳にする。詳しいことはググって頂きたいが、ざっくり言うと「1日のうち、風呂や食事、睡眠などを差し引いた消費者が自由に使える時間(=可処分時間)を自社のエンタメに費やしてもらう為に企業が力を注いでいる」という内容だ。
確かに現代社会にはスキマ時間を狙ったエンタメが溢れている。動画サイトやSNS、ソシャゲなどがそうである。他にもたくさんあるかもしれない。
ユーザーに対し、さまざまなエンタメ企業の方々が自分たちが世に送り出したコンテンツに時間を費やしてもらおうと日々並々ならぬ努力をしている。
こう聞くと今は可処分時間の奪い合い…と言われても特に違和感はないのだが、いち消費者ベースで考えた時には疑問が生じる。「今やる気にならん…」問題である。
こんな瞬間はないだろうか。何分かある動画を見ようとして、サイトを開いたけど、なんとなく見る気がなくてやめてしまう。何か据え置きゲームをプレイしようとして、なんとなく一覧を開いて結局やらずに止めてしまう。たとえゲームを開いてもだるくてすぐにやめてしまう。
そうした結果、youtubeのshortsやSNSなどをただダラダラ見て時間を過ごしてしまう。
可処分時間が仮にあったとしても、なにかしらのコンテンツをやろうとした際やる気力がないので、受容する際のカロリーが低いコンテンツor慣れ親しんだコンテンツに飛びつく、というようなことに身に覚えのある人は多いのではないだろうか。
可処分気力の奪い合い
私はこの現象を、「可処分気力の奪い合い」と表現している。つまり、「コンテンツを受容するための訴求力は持ちつつ、そのコンテンツを行うための気力的なハードルをいかに下げるかの勝負」である。
エンタメの話から少し逸れるが、学生時代勉強しようとして机に座ったはいいものの、参考書等を開いても理解するのに「めんどくさ」となった経験のある人は少なくないのではないだろうか。これもコンテンツを行う為の気力の話と無関係ではないと思う。
人が何かを行う際、それらにはコンテンツの濃さに応じてそれ相応の気力が必要とされる。しかし、慣れ親しんだものに対してはその気力が少なくなる。そうした背景から、人々はSNSなどに可処分時間を費やすのではないか。
任天堂がNintendo Switchを開発する際、「ゼロ秒で起動するように」と指示をしていたらしい。これも「可処分気力を減らす」ための施策といえるだろう。
もちろんこれは7年前の記事なので、今とは違う部分もあるかもしれない。しかし、現代でも時間ではなくこの「なにかするための気力」を奪い合っていると私は思う。
これからのエンタメ
これからもこの「可処分気力」の奪い合いは続き、短時間でぼんやり気力を消費せず見られるコンテンツが更に流行るのではないだろうか。どれだけ面白いコンテンツを作っても、それを受け止めきれる気力がユーザーになければ、「面白い」と思ってもらえなくなる。そんなことを考えながら、これからもエンタメを作っていく。
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