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狐氏、満腹至上主義を卒業したい

どこかの本だかなんだかで、400gのサツマイモを与えても100gしか食べなかった猿に、溶かしバターをつけたサツマイモを与えたところ、400gを超えてなお欲し続けた、という話を読んだことがある。
猿とは違い、火を手に入れ、さらには調味料と運命的な出逢いを果たし、「料理」を発明してしまった人類にとって、食べることは単なる生命維持活動以上の価値があることは自明だろう。
バターをつけたサツマイモどころではない。魚介の出汁をふんだんに使った鎌倉野菜の自家製味噌仕立て豚汁、などの美味しい代物が、世に溢れているではないか。

今回の有賀さんの講義「家庭料理の新デザイン」は、「料理」ではなく「家庭料理」についてである、という点が味噌だ(料理だけに)。「家庭料理」という文脈には、「料理」において大切な美味しさや生命維持活動性だけでない、様々な制約、幻想、思い込みがあるという。
人類が発明した奇蹟の一つであったはずの「料理」が、「家庭料理」の名を振りかざし、現代人を呪縛している…?(とまでは有賀さんは言ってない。)
それらひとつひとつ解きほぐし、現代において、現代人にとって、いや現代に生きるあなたが向き合う際に、「家庭料理」はどうあればよいか?と模索する、普遍的なテーマでありながら、斬新なアプローチだ。

かくいう狐は、いまのところ家庭料理に関するモヤモヤはない。実家は父も母もあたしも料理がすきだったし、気軽に外食も中食もしていたし、一人暮らしの今も、基本的に暇なので、部屋で餌のようなものを用意する際にストレスを感じることはほぼない。
むしろ楽しい暇つぶし程度に思っている。お絵描きのような遊びの類だ。
しかし、ここにも、デザインの余地があるのかもしれない。あるいは、今後、狐も現代人並に忙しくなって、新デザインの必要性が出てくるかもしれない。

良い匂いがする、おいしい味がする、お腹いっぱいになる。狐にとってこれまで、食べるという行為は、幸福感に満たされる単純な野性的ルーティーンに過ぎなかった。
今回の「家庭料理の新デザイン」ときっかけに、①世の人間たちは「家庭料理」についてどれほどこじらせているのか?②自分が当たり前と思ってたスタイルももしかして保守的だったのか?などと考えてみたい。何故って、満腹至上主義なんて、サツマイモを与えられた猿と一緒ではないか!などと思いをめぐらせながら、夜な夜な一人鍋をツンツン堪能するのであった。

#Nサロン #家庭料理の新デザイン

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