眠れぬ夜

 眠れないということには、何らかの理由があるもので。今日もおそらくは、はっきりとは自覚していない「眠れぬわけ」があるのだと思う。もちろん、それはたった一つの事象であるはずなどなく、いくつかのものごとが絡まり合っているのだとも思う。
 そこで、書くことを通して、その絡まりを解きほぐす試みをしてみたい。それは、これまでなんとなく書こうと思っていたこととも関わっているし、これまでぽつぽつと、あるいはグダクダと書いてきたこととも関わっているし、まだ書いていないこととも関わっている。


1

 僕は時折、自分の仕事に関係する「参考書」的なものを手に取ることがある。先日もそういう機会があった。そしてこう思った。

「なんだ、俺が普段言っていることと大して変わりないじゃん。」

 これまでも似たようなことを思ったことは、何度もある。
 
 …もちろん、内容としては変わらないように見えても、その言葉の選び方、配列の仕方、事例の選び方など、きちんと分析すれば自分との違いが見えてくることもある。名のある人が書いたものなのであれば尚更だ。
 けれども、一方で、自分とて決して質の低い仕事をしているわけではない、とも思う。とあるテレビ番組で、とある芸人が言っていたことだが、「金は努力に対してではなく、知名度に対して支払われる」。自分にもそう言い聞かせ、自分を半ば無理矢理納得させる。
 もっとも、それでも自分に欠けているものは多いのだけれど。



 万事において、努力というものは、自分の思うような形で報われるものではない。むしろ、努力とは報われないことが大前提だ。それでも、努力をしないわけにはいかない。世の中から理不尽に振り落とされないように。
 大して報われることなどない努力を、それでも続けていくために必要なことは、たった一つ。多くの期待をしないことだ。
 
 多分、今の自分が嵌っているぬかるみのようなものは、「期待」なのだろうと思う。


 結果を出すための努力など、裏切られるのがオチ。そもそも努力は報われないことが大前提なのだから尚更だ。
 だから、努力は「結果」とは別の次元を目的としなければならない。結果としてあらわれるかもしれない、自分の希望が叶うかもしれないなどという期待をしてはいけない。「結果」という他者や市場から与えられるものを目的としてはいけない。
 つまり、努力は自己満足を目的としていなければならない。

 忘れそうになっていることは、この真理なのだと思う。


2

 それほど昔とは言えない時期のこと、自分を切り捨てた人間のことは、これまで1日たりとも忘れたことはない。その人のことを考えなかった日はない。それくらい、そのことは僕にとって大きな出来事だった。先方にとっては、もう記憶の彼方の出来事に過ぎないだろうと思うけど。
 恨むという感情は、負の感情の多くがそうであるように、自分の力で制御するのが難しい。そういう感情を抱えながら時を過ごすのは苦痛だし、何ももたらさないのだけれど、だからといって簡単にそういう感情を切り離せるのであれば苦労はしない。
 僕は器の小さい人間なので、僕にそういう感情を与えた人間に対して、綺麗に忘れてスッキリなどということはできない。多分、まだ相当の時間を、恨む感情と共に過ごしていくことになるだろうと思う。もしかしたら墓場まで持っていくことになるかもしれない。

 ただし、「恨む」という感情は、自分に対して行われた行為に対して抱く感情であり、その人物の持つ人格に対する感情ではない。好意や敬意を抱いていたりすると同時に、これ以上ない恨みを抱くことも十分にありうる。
 だからこそ、面倒なのだとも言える。


 自分の「努力」が成果を出せないでいる時期は、そういう「恨み」をより強く思い出してしまうことになる。ネガティヴなことは相乗効果を生むのだろう。
 それを避ける道は多分、「自己満足」を完徹することだ。僕を切り捨てた人間など、所詮ものの道理を理解できない戯け者なのだ。こういう形でしか自分の人生を生きられない未熟者なのだ。そう思う以外にない。それは、全くもって品のない解決だが、残念ながら僕は決して品のある人間ではないのだから仕方ない。
 さらに言うことを許されるなら、殴る蹴るの暴行を加えた上で、土下座して号泣してこちらに謝罪していただきたいとさえ思う。もちろん、そんなこと現実にさせるべきことではないことくらい百も承知。けれども、僕の今抱いている「恨み」とは、そういう言葉でようやく表現できるくらいのものだということだ。
 せめて、僕のいる世界から完全に消え去ってほしいとは切に願うが、それも難しいだろう。もちろん、実際に消してしまう力も権利も、僕にはない。

 きっと先方には、僕が今どのような思いで生きているかなど、知る由もないだろう。こちらに何も落ち度や誤りがなかったとは言えないけれど、それでも今僕がこのように思っていることは、覆すことは難しい。


3

 結局のところ、現実と、そして他者と、何らかの関わりを持とうとするから、眠れなくなるのだ。
 僕は僕の世界と共に、自閉的に生きればいい。というより、そういう形でしか生きられない。そのくらい現実との距離を取ることができて始めて、ようやく現実と和解することができるかもしれないのだ。

 僕のような人間は、あまり現実に対して希望を持たないようにしなくてはいけない。
 下手に関わりすぎると、期待してしまう。だから、適度に現実に対して、そして他者に対して距離をおかなければならない。


 実のところ、音楽を聴こうとする意欲が低下している。実際、しばらくまともに音楽を聴いていない。それは、ある意味現実の中で生きようとする決意でもあり、それはもしかしたら精神の安定の証拠かもしれない。
 けれど、同時に、それはどこかで自分のおかしさの発露であるかもしれない。

 
 本当に、自分の内側の世界だけで生きていたい。

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?