小説「元カノをブロックしたとき」
1
「偶然会うこともあると思うけど、その時に話しかけたりはできないし、話しかけるつもりもない。けれど、SNSでのつながりまで切るつもりはない。」
彼女と別れるとき、こう伝えた。すると、こんな答えが帰ってきた。
「うん、わかった。でもね、わたしは今後も今までと同じように、いろんなこと呟くと思うから、辛くなったらミュートとかしていいからね。」
いいからね、という許容する言い回しに妙な上からの目線を感じ、ちょっとだけ引っかかる部分があったけれど、そこを深堀りすることはなく、その場は過ぎて行った。
むしろそれ以上に気になっていたのは、最後の話がスマートフォン上の文字を通して行われたことだ。別れることがあれば面と向かって言ってほしかった身としては、こういう形で終わりを告げられることは、正直あまりいい気分ではなかった。けれども、彼女がこの形の方が自分の言いたいことを伝えやすいというのであれば、それはそれはで仕方がない。それでもやはり、思うところはあるのだけれど。
そして、最後に彼女は、こう付け加えた。
「死ぬまで、ずっと好きでいて。」
こうして僕が本当に心の底から好きだった人は、僕から離れて、新しい人の元へと旅立っていった。
正直、SNSのつながりを切断しなかったのは、半分以上は未練によるものだった。もちろん、SNSとはいえ、こちらからリプライだのメッセージだのをするつもりは全くなかった。けれども、そこでのつながりを完全に遮断してしまうことは、僕には怖くてできなかった。
彼女がどう考えていたのかはわからない。彼女は、繋がった人をミュートしたりするのは主義に反すると言っていた。僕とつながっていたのも、その延長に過ぎなかったのだろうと思う。
ただ、彼女は、別れを決断したのは自分の都合によるものだということを、きちんと自覚していたのだとは思う。別れの原因を僕に見出して非難することはなかったと思う。
だから、自分が決めたことを動かさず、自分が決めたことには責任を取る態度を見せる一方で、別れに際して僕が決めたことには意義を唱えなかった。その態度は、付き合っているときからずっと、完徹されていたようにも思う。
2
別れた数日後、彼女のアカウントには、読んだ本や行ったライヴの写真やら、美味しそうな食べ物やら乾杯の写真やらがアップされていた。彼女自身が言っていたとおり、相変わらず日常の風景の一部があげられていた。そういうところで見られる情報の大半がそうであるように、彼女の発信する写真も綺麗で、彼女は穏やかで楽しそうに見えた。
数ある情報の中でも、これまでよりも頻繁に挙げられていたのは、食事や飲み会の写真だった。その写真には、目の前にある食器と同じものが、対面の席にも置かれていた。だから、どういう状況で撮られた写真なのか、嫌でもよくわかった。そのたび、肺の奥底に痛みが走った。
自分が最後に言ったことを、少しだけ後悔し始めた。
彼女は、ただただ素直に、その日の楽しかった時間を記録していただけなのだと思う。日々の記憶をそういう形で大切にとっておいたのだろうと思う。あるいは、別れ話をスマホを通して行う彼女であれば、楽しかったことを今のパートナーに伝えるという意味もあったのかもしれない。直接伝えることが苦手だと思っている彼女であれば、そういうことを意識していてもおかしくはない。
けれども、僕はそれを見て、少しずつ少しずつ辛くなっていた。もちろん、僕には遮断する選択肢があったし、そうしてもよかったのだが、そのときはまだ情報を遮断する勇気が持てなかった。
けれども、あるとき、彼女が最後に言った言葉を、もう一度思い出すことがあった。
「わたしは今後も今までと同じように、いろんなこと呟くと思うから、辛くなったらミュートとかしていいからね。」
そうだ、彼女は、僕が辛くなることを事前に予想できていたんだ。
そうか。そういうことか。
そこで、ようやく理解した。
今の彼女にとって、僕は、傷つけても構わない人間なのだ、ということを。
3
知人がSNS上でニュースについてあれこれ語ることがある。そんな感想から何かを得られることなどほとんどないのだが、ある時ある人がにこんな内容のことを述べていたことがある。
「女性の一人暮らしに、男性の配送行者がやってきて危ない目に会うとか、それは女性の危機管理にも問題がある。」
こいつは馬鹿なのかと思わずにいられなかった。
似たような感想は、例えば「空き巣に入られたのは、鍵を閉め忘れた方にも問題がある」「痴漢に会うのは、そんな露出が高い格好をしているからだ」という形でも、目の当たりにすることがある。
こうした感想には全く賛同することができない。空き巣や痴漢はそれ自体が犯罪であり、他者の権利や尊厳を傷つけるものだ。一方、施錠や服装についてはあくまで自己防衛の手段だ。そうである以上、第一に空き巣や痴漢が悪いに決まっている。空き巣に入られた人や痴漢にあった人は被害者なのだ。この両者を同列に扱い善悪を比較することは、すでに善悪についての基本的な発想を見失っている、と僕は思う。
そもそも、鍵があいていたからそこに侵入していいわけではないし、露出が高い服装をしていたから痴漢をしていいなどということはない。鍵の閉め忘れを責めることも場合によっては必要になるだろうとは思うが、それはまず空き巣が悪いことを前提とした上で行われるべきものだろう。
こうした発想をする人は、自己の責任という概念について、何か勘違いをしている傾向にある。僕の印象に過ぎないが、そう思う。
もっとも、こういう人たちのことについては、ここではこれ以上語るつもりはない。
ところで、彼女の悪意などないSNSの書き込みで、徐々に精神を疲弊させている僕も、同じように「ミュートする権利があるのだから、そうしないほうが悪い」と言われるのだろうか。
彼女はこうなることを事前に予期し、僕に警告したのだから、その通りにしない僕に非がある。僕はそう言われるのだろうか。
彼女は、空き巣や痴漢と同様の犯罪を犯したわけではない。ただただ、楽しかったことをそのままあげていただけだ。何も悪いことはしていない。だから、責めることはできないし、やめさせることも適切ではない。
けれども、彼女は、僕が傷つくかもしれないことを予想していた。予想できていた。にもかかわらず、その予想に合致するようなことを実際にしていた。彼女は僕が傷つくとわかっていたことを、自らの意志で行っていたことになる。
そうであればやはり、僕が傷つくことなど彼女にとっては些末な問題に過ぎない、ということを示しているのではないだろうか。
すでに別れた相手なのだから、僕の状況や心情を考える必要などない。自分も好きなようにやるから、あなたも好きなようにしていい。彼女はそう言いたいのかもしれない。それはそれで間違った発想ではない。
けれども、だとしたらやはり、僕が傷つくかどうかはどうでもいいことだと思っていることになるのではないか。だって、彼女は僕が傷つくかもしれないことを、予想できていたのだから。予想した上で、僕が傷つくであろうことを、彼女の好きなように行っていたのだから。
彼女がそのように考えるのは当然のことかもしれない。だが、当然のことだからこそ、僕がこう思ったとしても当然だろう。
今の彼女にとって、僕は、傷つけても構わない人間なのだ。
こうして、僕は彼女のアカウントを、ブロックすることに決めた。
ミュートではなく、ブロックすることに。
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