花の散り際

 一面に咲く梅の花を見ながら、もう終わってしまったいくつかのことを思い出す。

 いや、正確に言うならば、終わったというのはあくまで客観的な視点からの判断に過ぎない。主観的にはまだ何も終わっていない。状況が変わっただけで、僕の中では何かが終わってわけではない。それは形を変えて今なお続いている。
 もっとも、それは全てのものごとについて言えるとは思うけれど。

 当然のことだが、思い出したくて花を見に行ったわけではない。むしろ、終わってしまったことの大半は、思い出したくない代物だ。
 おそらくは、梅の花を見ながら、これもいつかは散ってしまうのだなあと思いをめぐらし、そこから過去の出来事に連想が向かったのだろうと思う。そういう儚く散るものへの感性は、伝統的には桜の花からイメージされるものだとは頭ではわかっているが、無知な僕には実際に見えている梅の花が桜の花とうまく区別できていなかったのかもしれない。

 ともあれ、客観的には終わったものごとだとはいえ、それは今でも自分の中に生き続けている。いや、むしろ忘れたくても忘れることができない。思い出すたびに自分に痛みを与えてやまないものとして、それらは今でも残り続ける。困ったことに、当分は僕の中に居残り続けるだろう。
 しかも、そのうちのひとつは、生涯に渡って僕に痛みを与え続けるんじゃないかと思う。


1

 梅の花は、よく見ると、桜とは違った印象を与える。

 確かとある美学者が書いていたことだが、桜の花はそのひとつひとつが美しいというより、それが一面に咲きわたっていることが美しいのだと思う。その著者は、桜を「群生の美」と表現し、対象を見つめることによってというより、包まれるかのような感覚によって覚える美だという。
 それは、先日桜に文字通り包まれることによって、なるほどと実感した。近づいてみる桜は、そこまで魅力的ではない。やはりあの桜色の雲のような、視界を覆い尽くすような花の群れこそが、桜の魅力なのだろうと思う。
 その、生命のエネルギーを力の限り発散しているかのような咲き方が、桜なのだ。

 
 それに対し、梅は近寄って見ると、桜とはちょっと違った魅力を感じる。
 一面に咲く梅も綺麗なのだけれど、よくよく近づいて見ると、梅の木には花が咲いていない空白の隙間のような部分がある。いくつかの花のかたまりが、適度な隙間をあけて、ぽつぽつと咲いている感じだ。だから、枝の形がよりはっきりとわかる。


 この空白が空いている感じが、梅の魅力なのかもしれないと思った。そして、この空白が、桜を見たときのそれとは違った印象を与えるのだと思った。それは、主に両者が与える「時間」に関するイメージの違いなのだと思う。
 桜の瞬発的なエネルギーと比べて、梅はもっとゆったりとしている。

 桜が「一瞬」という印象なのだとしたら、梅の与える印象は「悠久」なのだ。

 

2

 僕の中にある記憶が、客観的には「散った」にもかかわらず、今なお居残り続けるのには、もちろん理由がある。
 その一つは、散り際のあり方。それが自分の意志に拠るものではないということだ。

 厳密には、「自分の意志によるものではない」というよりは、「自分の予想できる範囲を超えていた」が正確かもしれない。
 いずれにせよ、自分で決定できる範囲を超えていたことは変わらない。

 自分で「終わらせた」ことには、責任が持てる。だが、自分の意志の及ばないところでは、責任の持ちようがない。
 もちろん、ものごとの「終わり」というものは、自分の責任の範囲を超えていたとしても、なんとなくその「終わり」が予想できるものだ。僕の記憶から離れてくれないそのものごとも、「終わり」は予想できていた。それが自分の意志とは別に「終わり」を迎えることは、むしろ僕自身が承認したことだ。
 けれども、その「終わり方」が自分の期待や想定を超えていた。自分の意志に拠らず、しかも自分の想定を超える「終わり」は、自分で処理しきることはできない。というより、処理できない形で「終わり」となってしまった、というべきかもしれない。

 「終わり」がうまく処理できないと、それはいつまでも自分の中にとどまり続ける。しかも、残ってしまった「終わり」は、かなり強烈な痛みを与え続けることになってしまった。
 僕の想定が甘かった、というのはある。

 けれども、たとえそうだったとしても、そのような「終わり」を強いた人に対し、好意的な感情を持つことはできない。そのことが、より強い痛みを僕に与え続けることになる。


3

 だからといって、散り際の美しい桜がいい、というつもりはない。

 桜の美しさはそれでよく、梅の美しさはそれでいい。どちらが優れているかという問題ではない。それぞれにそれぞれの印象の違いがあるけれども、それは優劣のない単なる「違い」でしかない。

 日本を代表する草木をひとつ選ぶとして、それは梅か桜か。
 そういう問いがあってもいい。だが、その問いに答える形でしか物事を評価できない、ということはない。そもそも、なぜ梅と桜をひとつの基準で競わせなくてはならないのか。それぞれがそれぞれの美しさを持つ、それでいい、という結論になっていいではないか。


 例えば、趣味の音楽があるからこそ仕事ができる。仕事をしているからこそ音楽ができる。多くの人にとってはそれでいいし、そうできることは幸せなことだ。
 けれども、そこで、「仕事か音楽かどちらかを選べ」という選択肢を突きつけられるのは、その人にとっては不幸なことだろう。

 同様に、音楽以外の人間関係があってこそ音楽が続けられる、という精神状態になることもあるだろう。
 あるものごとは、他のものごとと共にあって、初めてうまく成り立つ。そういうことは至るところにあるはずだ。

 おそらく、人が生きる上で必要なことは、たったひとつでは成立しない。
 何か大切なもの、重要なもの、必要なもの、それらを維持していくために、それ以外の大切なものがまた必要になってくる。

 競争原理の中で生きるうちに、僕たちはいつの間にか、何かをひとつだけ選択することに慣れ過ぎているのではないか。たった一つの「勝利」の座を掴むためには、他の蹴落とすことが不可欠だと思い込んでいないか。何かを選択することは、何かを捨てることだという思考に慣れすぎてはいないか。もちろんそれは一面の真理ではあるけれど、多くのものごとが相補的であることもまた真理ではないのか。
 

 梅と桜は、共存していていい。


4

 ともあれ、僕は、意図しない「終わり」を強いた人を許すことはできない。
 これまで体験した数多くの、そして何種類もの「終わり」のうち、その後の自分に過去にないくらいの痛みを残した記憶を植え付けた、その人を許すことはできない。
 痛みを残す記憶はもちろんそれだけではないけれども、その「終わり」はそれだけ特別なことだ。


 ただ、その一方で。満開の梅の花を見ながら、改めて思ったことがある。
 僕に痛みを与え続ける「終わった」記憶も、それが終わる前はきちんと咲いていた。今日目の当たりにした梅の花たちのように、精いっぱいに咲いていた。花と同じように、いつの日か散る定めだったとしても。僕の記憶の中でも、それははっきりと残っている。そのときは確実に咲いていた。
 そして、その花が定めに逆らい、永遠に咲き続けることを望んでいた。少なくとも僕はそうだった。

 
 悠久の時の流れを思わせる梅の花と枝を見て、僕の記憶の中にある花も永遠であることを願わずにはいられない。
 けれども、それは、客観的には「終わった」ことでもある。一瞬だけ強く咲き、儚く散ってしまったものだ。そのことも、受け入れなくてはならない。

 僕の中ではおそらく、時の流れを超えてその花が咲き続けるだろう。だが、同時に、散ってしまった花への憧憬と、花を散らせた人への尽きることのない恨みを、共に抱えながら時を過ごすことになるだろう。
 それらがもたらす激しい痛みとともに。
 

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