もう少し他人を尊敬して生きたい

 SNSなどを通して目にする言葉を見てしまうと、人間に絶望せざるを得ない。

 しかも、困ったことに、全く知らない人ではなく、リアルの知人だったり、あるいは何らかの形でやりとりをしたり、そういう関わりを持った人の言葉を見てさえ、絶望せざるを得ない。
 決して人格的におかしな人ではないはずなのに、そうであることをよくよく知っているのに、それでも発せられる言葉の背後にあるものに絶望してしまう。ある部分では本当に温和で善良だったとしても、その反面差別意識にまみれ、あるいは無知無学で学ぼうともせず、他者への攻撃性に無自覚で、しかもそのことを自覚も反省もせないその態度に絶望せざるを得ない。

 SNSだからついそういう本音が出てしまうだけで、リアルな関係性の中ではそんなことはない、その程度の分別はみな持っている。そう思っていたのだが、実はそうでもないことを知り、げんなりする。発言の方向性はSNSと違っていたとしても、その奥底にあるものに共通性を感じて、絶望してしまう。メディアを介さない、リアルな空間での出来事であるだけに、それが与えるダメージは大きい。

 
 こうして、元々あまりもっていなかった他者一般への信頼は、さらに希薄になる。

 いや、その絶望は、他者に対する期待の裏返しなのではないか。そう思ったこともある。他人は自分とは違うのだということを、もっと身体の奥底で理解すべきなのではないか。まだ他者に何かを期待しているのではないのか。そう思ったこともある。もっと自分と他人を切り離すべきではないのか、と。
 けれども、仮にそうだったとしても、いま自分自身が感じ、考えていることが変わるわけではない。


 僕に絶望を与える他者たちは、総じて「自分の気持ち」を絶対の基準に置き、しかもそのことに無自覚だ。ある意味では「ブレない」といっていいのかもしれない。
 自分の気持ちに正直であることがダメなのではない。あるいは自分の心情に正直であることが不快なのではない。むしろ、人が自分の感情に素直であることは、いいことではないかと思う。
 不快なのは、心情を下手な理屈で隠蔽し、しかも「隠蔽していること」に無自覚であることだ。そして、理屈や普遍性を個人的感情より優れたものと位置づけており、にもかかわらず理屈を突き詰めるわけでもなく、普遍性を追求するために他者との対話から自説を弁証法的に反省することもない。そういう態度が不快なのだ。


 他人に絶望したままでいることになど、何の快楽もメリットもない。ただただ不快なだけだ。
 他人に敬意を表せるほうが遥かに楽だ。

 できることなら、もっと他人を尊敬していたい。

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