連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第3回 アーカイヴ / 腐れ縁 ― 写真とアーカイヴ 文:清水穣
「写真±(プラスマイナス)」概要/目次
第3回 アーカイブ
もうひとつのモニュメントへ 文:倉石信乃
腐れ縁 ― 写真とアーカイヴ 文:清水穣
かつて、マラルメの「本」やボルヘスの「バベルの図書館」など、閉ざされた無限の迷宮で戯れる文学論が一世を風靡した時代があった (*1) 。「本」や「図書館」の時代、「アーカイヴ=文書館」といえば、そこに保存されているものは、「本」「図書館」以前の、公表されるに至らなかった資料、公表された作品を準備した資料、あるいは私信、日記、私物(物品、蔵書、写真、映像)といった非公開資料で、その敷居は高く、紹介状とアポイントメントが必須であって、そこに通うことはある種の特権であった。
デジタル化の波が、図書や映像資料に及び、これらがグローバルネットワークによって連接し、やがてその流れが各地の文書館の資料群にまで達してくると、アーカイヴ、アルシーヴという言葉はかつてのオーラを失っていった。それは、「本」というユニットや「図書館」「文書館」といった特定の場所に囲い込まれることなくある時代ある空間に遍在する、情報のコーパス(データベース)を漠然と表すようになった。さらにアーカイヴ技術と検索エンジンの能力が昂進して、例えばGoogle Books/ Scholarなどで、万人が水平的に(パスワードによる審査を経ることなく、また情報ソースの有名無名に関係なく)検索できるような環境は日常化し、それがスマートフォンやiPadによって携帯可能になっている。多かれ少なかれ現代のわれわれは、あらゆる時代の情報が、無時間的な空間(「クラウド」)のなかに並んでいるかのような幻想のなかで暮らしている。
このアーカイヴの幻想は、つねに検索用の距離を前提としている。情報データは「data=与えられたもの」である以上、つねにどこかからの引用であって、カギ括弧がついている。検索でヒットする情報はすべてカギ括弧つきである。写真もまた、所与の現実を、カギ括弧=フレームに収めることで成立する。つまり写真とは、世界のアーカイヴ化にほかならない。実際、写真が普及するに連れ、世界は次々と写真に収められていった。パリの銀行家、アルベール・カーンの野心は、全世界をカラー写真でアーカイヴにすることであった (*2) 。彼は写真家を雇って、発明されたばかりのオートクロームや動画用のフィルムを支給し、世界中に派遣したのだった。
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