非常時の家族 — 戦中日本の慰問写真帖について 文:若山満大

 かつて日本には慰問写真とよばれた文化があった。この言葉が厳密にいつ生まれたかは判然としない。しかし、少なくとも日中戦争の開戦とともにこの耳慣れない名詞が人口に膾炙し、やがてカメラを持つ市井の人々=アマチュア写真家に一定の訴求力をもったことは、当時の写真雑誌などを見るかぎり確からしい。

 慰問写真とは「戦線の将兵の慰問を目的に銃後から贈られた写真、またはそのような写真の総称」であると、ひとまず定義することができる (*1) 。あとにも述べるが、その撮影主体にはカメラを持つ市井の人々全員がなり得た。被写体は主に出征将兵の留守家族(国内に残された家族)およびその郷里の風景であることが多い。撮られた写真は慰問袋に入れられ、任意の部隊に宛てて贈られた。日中戦争開戦後、慰問写真という語が写真雑誌に掲載された最も早い例は『アサヒカメラ』1937年10月号(第24巻第4号)である。ここにおいて「慰問袋にはいって現地に送られ、将兵の寸暇を慰める」慰問写真は、国民が戦争に参加する方法のひとつとして挙げられている (*2) 。たとえば、神楽坂警察署勤務の警官・平松市平は「手すさびの写真機による銃後奉公を思いたち、非番や公休日を利用して去る3月頃から、最初は署員の出征留守宅訪問を始めたものだが、これが勇士達から大変な歓迎をうけたのに張り切り、どんどん一般からの希望にも応じ、遠近を問わず出掛けるようになって既に六十余家族を撮影発送」(*3) していたという。こうした草の根的な善意だけでなく、慰問写真を撮る動機はさまざまであった。千葉県写真連盟(1935年設立)の初代会長を務めた池田和は、コックス事件 (*4) 以降の防諜意識の全国的な高揚を受けて、1941年より連盟による組織的な防諜協力を開始したと述べている (*5) 。それは連盟に所属する「全県下カメラマンを、県庁、憲兵隊に登録」するというもので、登録者には「約五十頁にわたる撮影上の注意事項が詳細に憲兵隊と警察部の名前を以て記され」た手帳が配布された。「登録された人はフィルムや印画が配給される場合は優先権を持って」これを受け取ることができたという。1940年7月に施行された「奢侈品等製造販売制限規則」(いわゆる「七.七禁令」)などによって、カメラやフィルムの入手自体が困難になっていくなか、国策協力はアマチュア写真家にとって貴重かつ確実な材料入手の経路であった。写真家の桑原甲子雄が回顧しているように、慰問写真の撮影もまた、写真材料の配給を優先的に受けることができる国策協力の一つだった (*6) 。またアマチュア写真家・外川朝次の証言は慰問写真へのひとつの態度を示している。「初めは慰問写真だというので、何か特別の観念を持って記念撮影のようなものを写していましたが、そうではいけない。第一私達がカメラを向ける時には、もう頭には慰問にするしかないよりも、作品を作ろうという観念が一ぱいになってしまって(中略)結局自分もその中でこれまで趣味写真と同じ作品を作る感覚を味わっているんです」(*7) 。つまり、一部のアマチュア写真家(ハイアマチュア)にとって慰問写真は、物資統制のなかでフィルムを入手する経路であり、尚且つ国家的非常時において合法的(合倫理的)に趣味を嗜むための方便でもあった。

 慰問写真という概念あるいは制度によって、カメラを持ってさえいれば戦線にいる将兵と銃後の留守家族を結ぶという「奉仕」が可能になった。趣味としての技術(余技)もまた、戦時においては供出の対象になったのである。1939年7月14日の東京朝日新聞社・全関東写真連盟主催「郷土将士カメラ慰問」(陸軍省・海軍省・内務省・厚生省後援)は、アマチュア写真家の動員が極めて大規模に行なわれた最初の事例である。草の根的な善意であれ、ハイアマチュアの方便であれ、カメラを持ち写真を撮る人々は動員の対象となり、写真報国の名のもとに戦時体制に編成されていった。


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